いきなり、
曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。
の書き出しである。
まいった。「のうじ」とかなは振ってあるのだが、意味どころか、そもそも「曩時北町貫多」が何を指すのか、まあ読めばおよそ人物とは分かるのだが、それでも最初など、全部が名前なのかと思ったくらいだ。
「曩時」、広辞苑によると
のう‐じ【曩時】 ナウ‥
(「曩」は先の意)さきの時。以前。昔。曩日(のうじつ)。
という意味らしく、この場合、「以前」と言うことで、まあ「その頃の北町貫多の一日は〜」といったところである。
その後も、年百年中(ねんびゃくねんじゅう)やら、後架(こうか)やらと続く。
概して、この類のわざとらしいものは性に合わないのだが、読み進むうちに、なぜか引き込まれてしまった。不思議にも、日常的にはもちろん、現在では全くと言っていいほど使わないそれらの単語や言い回しが、次第に心地よいリズムに変わっていくのである。
そのリズムだけでも読み切れる不思議な小説であり、文体である。出版社の売り方や受賞の紹介などを見る限り、やや暗めの重い印象を受けてしまうが、とんでもない、ユーモアに満ちた、実に軽い、読めば、ほんわか、明るい気持ちになれる小説である。
かなり練り込んだ無駄のない記述と最前からの軽やかなリズムに加え、実は相当楽天家ではないかと思わせる、西村賢太さんご本人のキャラクターも、大いに現れているのではないかと思う。
初っ端、読めない言葉に面食らい、「友もなく、女もなく、一杯のコップ酒を心の慰めに、その日暮らしの港湾労働で生計を立てている十九歳の貫多」の日々を読み進めば、この男は、大物でなくとも多少のワルなのだろうとイメージされてくるのだが、その貫多の初めての会話体が、
やだよ。だってぼくの方が先にここで休んでいたんだから。協力する義務はないよ」
である。これには、大いに笑った。貫多が埠頭で休んでいるところへ、テレビか何かのロケ隊がやってきて、移動してもらえないかと言ってきたシーンでのことだ。多少はすごむのかと思ったが、なんと、真っ正面から理屈で答えている。「義務」などという言葉まで持ち出して。
文中、盛んに、自分のことをプライドが高いと言っているわけだから、当然計算された会話体だが、大いに受けた。これ以降、「ぼく」の会話体も多くなり、それにつれて、どんどん入り込み、最後には、貫多がかわいくみえてくるのだから不思議だ。
ところで、貫多がやっている日雇い人夫(にんぷ、差別用語らしく、変換も出来ない)だが、私も18歳の頃、1年ほどやっていた。貫多は、その職を求人誌で見つけているが、私の時代は、そんなものはなく、早朝、某所(地名)の路上で立って待っていると、元気なアンチャンがバスやワゴン車でやってきて、現場まで乗っけていってくれる、便利な送迎つき(笑)のアルバイトだった。