あっけないくらい、すらすらと読み進めてしまう。だが、その行間から浮かび上がる風景は味わい深い。
表題作の「かけら」、そして「欅の部屋」「山猫」と、短編3作が収録されている。この3作が並べられているのは意図的なのだろうか、それぞれに語り手の性別や立場が変わり、面白い。「かけら」は大学生の女性、「欅の部屋」は結婚を間近にひかえた20代後半の男性、「山猫」は新婚の夫婦が章により代わる代わるといった具合に、バラエティに富んでいる。
面白いと感じるのは、3作の雰囲気の違いが、その語り手の性別立場の違いにあるのではないかと思えることだ。青山七恵さん、1983年生まれだから28歳。作者本人のリアルな感覚が反映されやすい「かけら」は、たとえば「綿棒のようなシルエットの父がわたしに手を振って,一日が始まった。」や「首もとまできっちりボタンをとめたポロシャツ姿の父は、そういう風景に貼り付けられた一枚の切手みたいだった。」といった具合に、視覚するものを比喩で表現することが多い。それらは、表現としてはぼんやりしているが、読む者には明確な視覚イメージとして立ち上がってくる。多分、本当にそのように誰かを見て感じたことがあるのだろう。
ほぼ同じ年齢の大学生「知寿」が語り手の「ひとり日和」も、この作品と同じような感覚の作品だ。語り手の心情や思いがストレートな言葉として記述されることは少なく、その視覚イメージが独特な感覚で言語化されていく。
「欅の部屋」は、男が一人称で語る話である。結婚のための引っ越しをひかえた「僕」は、なぜか今も同じマンションの階下に住む4年前に別れた女性への思いが断ち切れないでいる。「他に好きな人ができた」と振られたのだから、断ち切れないのも当然だし、つきあい始めた頃、わざわざ彼女の方から同じマンションに引っ越してきたのだから、そのまま同じマンションにいるのも納得がゆかない。できるだけ顔を合わさないように避けてきたが、当然、事ある毎に彼女のことを思い出す。
恋愛の話だからということもあるかも知れないが、「かけら」のように、静止画のような一瞬が比喩的に語られることもなく、「僕」の心情が、見ている風景や思い出に張り付くような描写が多くなる。「かけら」に比べるとかなり湿った感じがする。
まだ2冊しか読んでいないので、この違いがこの作品に限ったことなのか、また、他に男性が一人称の作品があるのかも分からないが、「欅の部屋」は、私にはあまり新鮮には感じられない。別れた男にはこうあって欲しいという願望か?
「山猫」は、東京で暮らす新婚の夫婦のもとに、西表島から高校生のいとこがやってくる話だが、妻の一人称で語られたり、夫の一人称で語られたり、時に客観描写が入ったりと、ややまとまりに欠けている。語り手の主体は意図的に変えているのだろうが、どこかなじまない感じがする。妻の方の描写は、結構現実的で細かいが、夫の方はぼんやりしている。よく分からないのではないかと思わせる。
やはり、持ち味は「かけら」や「ひとり日和」のような作品にあると思う。