- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2011/10/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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新進気鋭なんでしょうか? 1974年生れの40歳ですから、そうでもないですね。最近よく見かけるようになった國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」、なかなか面白かったです。
人は豊かさを求めて努力する。その結果、お金も出来た、時間の余裕もある。なのにその豊かさに満足できず、暇をもてあまし退屈する。これは一体どうしたことか?
國分さんは哲学者ですので、この問いに、哲学の先人たちの考察を引用し、また自身の解釈を加えながら、分かりやすく説き明かしてくれます。
さらに、人は暇と退屈のなかで生きる時、
生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。
といった状況に陥り、「大義のために死ぬ」ことさえ厭わなくなります。これにも答えようとします。
読みやすい本ですので、何も私が解説を試みる必要はありません。いくつか印象に残ったところを書いておこうと思います。
論理を立てるための出発点に、あの「考える葦」のパスカルの次の考察が引用されます。
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
全くその通りですね。パスカルは、わざわざ重い装備をもって兎狩りに出掛ける人に「ウサギ狩りに行くのかい? それなら、これやるよ」と兎を渡してごらん、と「パンセ」で皮肉っているとのことです。過剰なる欲望、欲望の原因と対象の齟齬ということでしょうか。
ラッセルの「幸福論」についての考察も面白いです。ラッセルは、「退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである」と言っているそうです。つまり、人は毎日毎日同じことの繰り返しが耐えられない、何か事件が起きれば退屈を紛らわすことが出来る、だが事件はそう起きるものではない、これが退屈である、ということです。我々は人の不幸でさえ消費しているということでしょうか。
「退屈」の起源を考える第二章で引用されている西田正規氏の「定住革命」という考え方が面白いです。
次に読んでみようと思いますが、紹介されている要点は、人類は食料の生産技術を獲得できたので定住した、といった定住することがより進んでいるという考え方は、定住があたりまえの今の我々から見ているからであり、実は定住せざるを得なくなったので、結果として農業技術などを獲得したのではないかということです。
なぜ、この考え方が暇と退屈の考察に関連してくるかですが、國分氏は「定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになった」 と説いています。遊動生活においては、人類の持つ優れた能力は遊動時の探索能力として機能していたが、定住生活ではそれが必要なくなり、「大脳に適度な負荷をもたらす」何かを求めるようになった。その能力は「高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体系や芸能などを発展」させた。そうした能力が行き場を失った状態が「退屈」である、ということです。
長くなっていますので省略しますが、ゴミとトイレの話は興味深いです。ただ、どこまでが西田氏の引用で、どこからが國分氏の考えなのかはっきりしないところがあり、西田氏の著作を読んでみるしかないですね。
後半は、ほとんどハイデッガー「形而上学の根本諸概念」を読み解くことに割かれています。
ハイデッガーは、「ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している」から出発し、退屈を第一から第三までの三つの形式に分析(分類ではない)し、第三形式の「何となく退屈だ」という深い退屈に行きつきます。
で、國分氏は、
人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。(略)能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「何となく退屈だ」という声を耳にしてしまう。
とまとめます。
さらに、論理は「環世界」の考察へと導かれ、かなりのページがハイデッガーの考察に割かれます。で、國分氏は、ハイデッガーの「退屈から逃れるためには決断せよ」を批判的にとらえ、決断は決断したことをただただ遂行することに繋がり、決断の内容に従属することになる、それでは結局論理の出発点である自己喪失(=退屈)状態に戻ることであると分析しています。
じゃあどうすればいいんだ?ということになりますが、きちんと「結論」と書かれた章が立てられています。
が、この結論が私には現状追認としか思えなく、非常に理解しにくいものです。まずは、「大切なのは理解する過程」であるのだから、この本を読み考えたことに意味があると、それはそうでしょうと思える、まずはあたりまえのことがひとつ。
そして、ふたつ目が「消費」ではなく「浪費」の勧めであり、どういうことかと言いますと、現代は「物を受け取るのではなくて、終わることのない観念消費のゲームを続けている」から、「消費すればするほど、満足が遠の」き、「そこに退屈が現れる」、物を受け取るという贅沢(浪費)を取り戻さなくてはならないと説き、その具体例として、「物を受け取ることとは、そのものを楽しむことである。たとえば、衣食住を楽しむこと、芸術や芸能を楽しむこと」をあげています。
退屈→思考→行動→退屈というループする現状を追認しているだけで、何ら結論も解決の道も示そうとはしていない感じがします。國分氏によれば、解決しようがない、現状をより良く生きるしかないということのようです。
締めくくりはこう書かれています。
マルクスは「自由の王国」の根本的条件は労働日の短縮であると言っていた。誰もが暇のある生活を享受する「王国」、暇の「王国」こそが「自由の王国」である。誰もがこの「王国」の根本条件にあずかることのできる社会が作られねばならない。そして、 物を受け取り、楽しむことが贅沢であるのなら、暇の「王国」を作るための第一歩は、贅沢のなかからこそ始まるのだ。
何だか本末転倒のような感じがします。