アゴタ・クリストフ「悪童日記」 を読んでみたら、残酷さと優しさの同居した彼らは、まるで「気まぐれな神」のよう

もちろん観念的な意味においてですが、他者との関係の拒絶と無関心は究極の優しさにつながるのかも知れません。

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

映画「悪童日記」を見たことで原作を読むことになりました。

「悪童日記/ヤーノシュ・サース監督」これを見ると原作を読みたくなります。映画を見る限り、原作の邦訳題名「悪童日記」どうかと思いますが… – 沈黙する言葉

確かに原作にはナチスやユダヤ人と特定した記述はありませんが、どう読んでもそう読み取るしかないですね。おばあちゃんの体型や住まいが田舎過ぎるのではないか(これは結構大きな問題?)など、いくつか、おや?と思うところはありますが、全体としては、映画はかなり原作に忠実に作られていたように思います。

ただ、忠実であれば原作の主題をきちんと捉えているかというと、往々にしてそうはならず、特に子供たちのナレーションというかなり説明的な手法をとった所為でしょう、本質的なところで原作から離れたところに着地してしまったようです。

原作から読み取った子供たちのイメージは映画とは随分違うものでした。

彼らは都会的で洗練されており、知的で頭もよく、さらに何事にも耐えられる忍耐強さを持っています。当然ながらリアリズムではありませんから、そんな子供たちが現実にいるはずもなく、私は、かなりエンターテイメント性の高い作品だと感じました。

読んでいて面白いです。子供たちが常に大人たちの上をいく様は痛快です。おばあちゃんや(ナチスの)将校の行動など、屋根裏部屋から覗くことができますから、常にお見通しですし、かと言ってそれを悪用したりするわけではなく、知っていることによって上位に立たせています。

神父との関係も同様で、本当かどうかは分かりませんが、兎っ子とのことを知っているとお金をもらいに行きます。恐喝ですね。でも、そのお金は自分たちのためではなく兎っ子のためという大儀がありますし、聖書にしても、全て暗唱しており、神父はぐうの音もでません。

こうした立ち位置は、

感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。(早川書房堀茂樹訳より)

と、自分たちの学習方針を語る形で宣言されている通り、感情、つまり他者との関係性から生まれる心の動きを排除することで子供たちに孤高の立場に持たせています。

次々と押し寄せる苦難、空腹や苦役などの肉体的苦痛や人間的尊厳を踏みにじられる精神的苦痛も、それらが降りかかる前に訓練と称して体験させ、実際にその局面になった時にも何ら怯むことなく更なる高みに立たせています。

ただ、唯一彼らが感情を揺さぶられ動揺する場面があります。「あたかも家畜のように牽かれていく行く(ユダヤ)人間たち」を目撃し、また終戦後、収容所で死体の山をみる場面です。

母親の死を目の前で目撃しても「感情」を動かすこともない彼らが、なぜこの点においてのみ感情的になるのか、この小説の核心かもしれません。

ある意味、彼らは全能の存在です。父の屍を、言葉通り踏み越えていける意志も持っています。しかし「黒焦げになった死体の山」を目にした時、神さえも止めることが出来なかったその事に「嘔吐」するしかなかったのかもしれません。

やはり、原作の「悪童日記」という邦題には違和感を持ちます。そのタイトルだけではなく、リアリズムで迫った映画からの印象で、ブログに「過酷な日々の繰り返しの中で、ふたりに何が起きていくのか、冷めた悪意のようなものが蓄積されていくことはないのか」なんて書いてしまいましたが、子供たちに「悪意」などありませんし、すでに最初から現実と切り離された存在です。

彼らの残酷さと優しさの同居は、結局「気まぐれな神」の地平にいる存在と言うことでしょう。