なぜ安倍くんは、「日本を取り戻す」とか「美しい日本」とか、戦前の国体思想回帰を叫びつつアメリカに媚びを売ろうとするのか不思議で仕方がなかったのですが、この本を読んですっきりしました。
ひとことで言えば、日本の敗戦とは「国体をアメリカによって支えてもらう」選択であったということであり、いまだ戦前の国体思想は脈々と受け継がれているということです。
そもそも「戦後」とは要するに、敗戦後の日本が敗戦の事実を無意識の彼方へと隠蔽しつつ、戦前の権力構造を相当程度温存したまま、近隣諸国との友好関係を上辺で取り繕いながら--言い換えれば、それをカネで買いながら--、「平和と繁栄」を享受してきた時代であった。(115p)
「敗戦の事実を無意識の彼方へ隠蔽し」とは、戦争の勝者であるアメリカの庇護下に入ることで「敗戦」を「終戦」とごまかし、自分自身をアメリカと同一化させることで「敗者」である自らを「勝者」に転換させたということであり、「戦争は『終わった』のであって、『負けた』のではない」という「神州不敗」の神話を自らも信じ、そして日本人全体の意識下に浸透させたということになります。
「親米保守」といういびつな勢力
その主体は、戦後一貫して日本を支配してきた「親米保守」という勢力であり、
概念的に言えば「保守的なるもの」、すなわち「日本固有のもの」が、米国、すなわち「固有のものでないもの」によって支えられているという(147p)
極めて奇妙な権力構造を生み出したのです。
その選択がどのようになされたかについては、第三章『戦後の国体としての永続敗戦』にいくつかの史実が述べられていますが、言うまでもなく、その選択は一方的なものではなく、もちろん対等な立場ではないにしても、アメリカと日本双方からなされたものであり、あの昭和天皇とマッカーサーのツーショットに極めて象徴的に現れています。
またこの無節操とも言える選択を持続可能なものにしたのは、朝鮮戦争から東西冷戦にいたるパワーバランスの中で生み出された「平和と繁栄の幸福な物語」であり、それは国体護持勢力にとっては、あってはならない「敗戦」という事実を忘却の彼方へ押しやるに充分なことであったのです。
国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認にさせてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける。(略)敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く-それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。(48p)
アジアに対して勝者のごとく、アメリカに対しては××の如く
当然ながらこうした価値観は、アジアに対してまるで勝者のごとき振る舞いをなすこととなり、同じ敗戦国でありながらEUのリーダーとなったドイツとは比べようもないものとなります。
尖閣諸島、竹島、北方領土の領土問題や従軍慰安婦問題、そして北朝鮮との国交正常化や拉致問題など、山積みとなっている近隣諸国との未解決の問題については、『第二章「戦後の終わり」を告げるもの』で、「条約」という国家間の約束事を詳しく紐解きながら、その意味するところを説き明かしています。
この章だけでも読んでみると、今いろいろ起きている事柄が違ってみえてくると思います。
で、冒頭のこの本を読むと「安倍晋三」がよく分かる件は、つまり「永続敗戦」という価値観を支えてきた「繁栄」の構造が崩れつつある今、
保守政治家の中でも戦前との連続性を最も色濃くはらんでいる-それゆえ逆説的にも大変「戦後」的である-政治家安倍晋三(117p)
と「国体護持」派にとっては、実質的にも内面的にもアジアへの優位性を維持できなくなっており、その寄るべきところは「国体」回帰しかないということになります。
これは昨今の安倍くんの言動をみれば今さらとも言えることですが、一方当然ながらアメリカが容認する「国体」維持は限定的なものであり、アメリカが国益に反すると判断すれば同盟国と言えども切り捨てることも厭わないでしょう。
アメリカ議会調査局が安倍くんの歴史修正主義を批判しているとの報道がありましたが、この文脈で読めば当然のことと言えるでしょう。
米議会調査局が安倍氏の歴史修正主義を批判、「アジア情勢の緊張化を招き、米国の利益を損ねている」―韓国メディア (FOCUS-ASIA.COM) – Yahoo!ニュース
検索していたら櫻井よしこさんのブログがありましたのでこれも貼っておきましょう。
世界によって自分が変えられないように
で、問題はこの認識に立つ時、われわれは一体何をなすべきか? なんですが、現実問題として「国体護持」であるかどうかは別にしても「親米保守」が多数をしめる現在、著者も
問題は、それを内側からわれわれが破壊することができるのか、
との問題提起はあっても具体的行動を示すことはできないようです。
ただ、「あとがき」にこんな言葉が引用されています。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。
ガンジーの言葉だそうです。