議論というものは、それを戦わせる互いに、最初何となくぼんやりしていることが、次第にはっきりとみえてくるようになるものです。
安保法制の議論、ここに来て、安倍くんや中谷くんの答弁に「新三要件を満たせば」の言葉が頻繁に出てくるようになりました。
つまり、「新三要件を満たせば」、例えアメリカが先制攻撃した戦争であっても日本の戦争参加が可能となり、例えアメリカ軍と一体化しようとも後方支援が可能となり、例え他に迂回路があろうとも南シナ海での機雷掃海が可能となるなどと答弁しています。
東京新聞:南シナ海での掃海 排除せず 首相「要件満たせば」:政治(TOKYO Web)
安倍くんも中谷くんも、この「新三要件を満たせば」を唱えれば、どんな批判もかわすことが出来ることに気づいてしまったのです。
「新三要件を満たせば」が魔法の呪文化している!
で、あらためて、この「新三要件」とは何かですが、政府資料の「平和安全法制等の整備について」に次のようにあり、もともとは昨年7月1日の閣議決定によるものです。
日本が自衛権行使(武力行使)する場合の要件として次の3つを満たしている必要があるということです。
- 我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
- これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
- 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
で、「新」があるのなら「旧」があるわけで、こちらがそれです。
- 我が国に対する急迫不正の侵害があること
- これを排除するために他の適当な手段がないこと
- 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
この2つを見比べながらじっと眺めていますと、新三要件が、集団的自衛権行使をしたいがために苦し紛れにつくられたものであり、それゆえ非常に曖昧なものになっている、または曖昧にしてあるということがよく分かります。
もし憲法上、集団的自衛権の行使が認められるのなら、「我が国および我が国と密接な関係(同盟)にある他国に急迫不正の侵害があること」でいいわけですが、それが憲法上認められないから、さらに言えば、集団的自衛権の行使が憲法違反だと分かっているから、その条件に「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」という文言を持ち出しているわけです。
で、考えてみるに、「他国が武力攻撃されて」、「日本の存立が脅かされる状態」ってどういう状態やね?
「他国が武力攻撃されて」、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」ってどんな危険やね?
そんなもんありえんわ。平和ぼけでも何でもなく、そんなものあり得ないし、唯一あるとすれば核戦争ですわ。
と、何もそんなことが言いたいわけではなく、要は、もともと条件などつけたくないのにつけざるを得なくてつけた条件など条件にならないということです。
「たとえば?」と聞かれて出てくる例えが、ホルムズ海峡封鎖? 朝鮮半島有事? 中国の脅威? このどれも、他国が、つまりアメリカが攻撃されて、日本が集団的自衛権を発動しなければ自衛できないような事態など考えられないでしょう。もちろん個別的自衛権を発動すべき事態は考えられますが。
抑止力? 条件付の武力行使に抑止力などあるはずもありません。
で、本論。
もうすでに、この安保法制は憲法解釈の限界を超えています。こんな姑息なやり方でずるずるとあらぬ方向に引っ張って行かれたくはありません。今こそ、憲法がどうあるべきか、本当に日米安保条約は日本のためのものなのかの議論を始めるべきです。