このところ、時間的な余裕もでき、出来るだけ安保法制の国会中継を(ニコ生で)見るようにしています。
もともと国会議員の議論なんて、事前に質問を聞き取って官僚が答弁を用意するということなので、生産的な議論なんてあり得ようはずもないのですが、それにしても、安保法制に関する安倍くんや中谷くんの答弁はひどいものです。
質疑に対して、何一つ正面から答えようとしません。
まあ、野党の質疑も挑戦的なものが多く、揚げ足をとられないようにと防御が固くなるのも当然だとは思いますが、自民党や公明党の与党議員との議論にしても、質問側が具体的事例をあげて法案の説明をし、それに対して、安倍くんや中谷くんが「しっかりやっていく」などと答えているだけで、本当に不毛なものだと思えてきます。
ただ、中谷くんは、あまり有能には見えないのですが、悪の凡庸さ的正直者のようで、時にこの一連の法案の核心をポロリともらすことがあります。
6月5日の「憲法を安保法制に適用」発言
国民の命とそして平和な暮らしを守っていくために、憲法上安全保障法制はどうあるべきか、これは非常に国の安全にとって大事なことでございますので、与党でこういった観点で御議論をいただき、そして現在の憲法をいかにこの法案に適用させていけばいいのかという議論を踏まえまして閣議決定を行ったわけでございます(国会会議録検索システム-本文表示(MAIN))
に始まり、昨日8月5日の「核兵器輸送可能」発言と、まあこんなにあからさまに言われてしまうと逆に聞く方も麻痺してしまうのではないかと心配になってしまいます。
東京新聞:安保法案 「核兵器輸送も排除せず」 防衛相、実現性は否定:政治(TOKYO Web)
結局、これらから見えてくる今回の安保法案の目的は、と言いますか、そんな深層を探るというほどのことでもなく、安倍くんははっきりと公言していることなのですが、要は「日米安保条約の片務性」を解消し、アメリカと「血の同盟」を結ぶということにつきます。
そのために作った法律なので、たとえば核兵器は運べないという制約をつけることはしたくない、あらゆることが可能な法案にしておきたいということなのでしょう。「新三要件を満たせば先制攻撃も排除しない」「核兵器の運搬も法文上は排除していない」と。
今回の安保法案は、決して限定的などではない、フルスペックの集団的自衛権が行使できる法案だということです。
日米安保条約の片務性を解消しアメリカと血の同盟を結ぶ?
この「血の同盟」という言葉は、『この国を守る決意』という安倍晋三、岡崎久彦共著となっている本の中に出てくる言葉ですが、本当に気持ち悪い言葉です。
今回の安保法案の賛成意見の中で気になることは、たとえば「友だち(菅くん)が襲われたら」とか「隣の家が火事になったら」とか、やたら「信義」やら「友情」やらを持ち出して「血の同盟」的感情論に持ち込もうとしていることです。
「憲法違反でしょ」「法的安定性はどうなるの」といった論理性に対してまともに答えることもせず(出来ず)、「友だちが殴られたら、殴り返すのが当然でしょ」みたいな情緒的友情論を持ち出し、さらには「憲法学者の6割が自衛隊も憲法違反だと言っている」と居直り、だから学者の言うことなど聞くことはないとでも言いたいのでしょうか。
政治家の仕事はそこじゃないでしょう。国を守り、国民を守るというのなら、まずは論理的にものごとを考えて、論理的に説明すべきでしょう。感情論でアジテーションする政治家に碌な者はいない(かった)です。
今議論すべきは、日米安保条約という軍事同盟に自分たちの未来を預けるかということでしょう。
日本は日米軍事同盟の道を進むのか?
日米安全保障条約とは、簡単にいえば、日本が軍事的に攻められたらアメリカが守る、アメリカが攻められても日本には憲法九条があるから軍事的には守れない、その代わり、アメリカ軍の日本駐留も認めお金も出しますという条約です。
これが、安倍くんたちのいう「片務性」ということなんですが、確かにその意味では「双務性」をもった同盟にするという考えは論理的です。ただ問題は、最初から対等な関係で結ばれた同盟と、一方的な関係の中で結ばれたひずんだ同盟に双務性を持たすのでは大きな隔たりがあります。
現在の日本は、アメリカに対して従属的な立場にいるわけで、どう考えても対等ではありません。軍事的にはアメリカの領土内みたいなもので、その意味では戦後は終わっていないでしょう。
対等になるために、日本もアメリカが攻められたらアメリカを守ろうというのが安倍くんたちの考えです。「戦後レジームからの脱却」とはそういうことです。
ただ、長くつるんでいる友達関係なんて危なっかしいもので、実は自分たちが不良仲間かも知れないと自己客体化など出来ようはずもありません。
で、どうするか、難しいですね。