英国は香港を取り、米国は台湾を取る=原貴美恵「サンフランシスコ平和条約の盲点」を読む(2)台湾~尖閣諸島

日本の独立は神話か?=原貴美恵「サンフランシスコ平和条約の盲点」を読む(1)概要~朝鮮半島」からの続きです。

1951年9月8日に日本と連合国との間にかわされたサンフランシスコ平和条約の台湾に関する条項は次のとおりです。

  第二章 領域

   第二条

 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

確かに著者の言う通り、どこに対して放棄したのかの帰属先、どこまでの範囲を放棄したのかの地理的範囲が示されていません。

もともと日清戦争で日本に割譲された歴史から言えば中国なんですが、1951年当時、中国大陸では49年に中華人民共和国が成立し、台湾は蒋介石の国民党の支配下にあり、さらに連合国内にあっても、アメリカは国民党政権を合法的政府と認めていますが、イギリスは中華人民共和国を承認しているという非常にややこしい状態になっています。

台湾の歴史概略

ざっと台湾の歴史を見てみますと、

  • 1624年 オランダ(東インド会社)統治
  • 1662年 鄭成功(漢民族)統治
    中国本土で明が清に滅ぼされ、明朝の残党が台湾の東インド会社を駆逐し統治(鄭氏政権)
  • 1683年 清朝統治(清が鄭氏政権を滅ぼし台湾制圧)
  • 1895年 日本統治(日清戦争により日本に割譲)
  • 1945年8月 台湾省として中国に編入
  • 1945年~ 国共内戦(アメリカ非介入方針)
  • 1949年10月 中華人民共和国成立
  • 1950年1月 アチソン・ライン(中国への非介入の意思)
  • 1950年1月 イギリス、中華人民共和国承認
  • 1950年2月 中ソ友好同盟相互援助条約締結
  • 1950年6月 朝鮮戦争勃発
  • 1950年6月 アメリカ、非介入方針を変更し、台湾海峡へ第七艦隊派遣

台湾の戦後処理の推移

  • 1943年 カイロ宣言(満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還)
  • 1947年8月 緯度経度を用いた明確な境界線が引かれた草案(尖閣は返還領土に含まれず)
  • 1949年11月 シーボルト意見書

この頃になりますと、朝鮮半島と同じで、政治状況の変化が平和条約草案への変化となって現れ、国連の信託統治まで検討されたようです。また、日本が放棄する領土を緯度経度で線引きする方法はなくなっています。

この頃から、講和会議への中国代表権問題が検討され、当初アメリカは国民党政府と共産党政府(中共)の双方に代表権を認めようとしていたらしいです。

  • 1950年8月 台湾と南樺太、千島列島が一緒に扱われ、「合衆国、英国、ソ連および中国」の合意によるとされ、1年以内に合意されなければ国連総会の決議によるとされた

アメリカとしては、この6月に第七艦隊まで出動させて中国への非介入方針を変更していますので、中国への返還をうたうことはできず、苦肉の策ということなんでしょう。さらに朝鮮では中国義勇軍の介入で直接対峙する状態となっていますから、中国の代表権問題も国民党政府(中華民国)へ傾きつつあります。

  • 1951年3月 四大国協議及び国連決議方式は消えて「放棄」のみが規定される

この時期のアメリカの公式文書に、国連決議方式でも台湾の中共への返還が勧告されるおそれがあるので、台湾の地位は未定にしておくほうが懸命だとあるそうです。

イギリスの立場

第二次大戦前後のイギリスは、現在とは違い、アジアに巨大な植民地を持つ世界帝国ですので、朝鮮半島とは違い、台湾の処遇についてはかなり積極的にプレゼンスを発揮したものと思います。

そもそもいち早く共産党政権を承認したのも、香港の植民地利権や中国市場の経済的な利害があったと著者は言います。

そうした政策からでしょう、朝鮮戦争や台湾問題が中共との全面戦争になることを恐れて、アメリカに台湾問題での譲歩を求めたようです。つまり、台湾の中国(中共)への「割譲」と中華人民共和国の中国代表権承認をアメリカに求めたということです。

  • 1951年5月 米英の調整進まず
  • 1951年6月 台湾の帰属は明記せず、両中国政府とも講和会議に招待せずで米英合意

結局、アメリカがイギリスを押し切り、台湾を確保したということになります。アチソン・ラインでは朝鮮と台湾の喪失を覚悟していたアメリカですが、現実には中国封じ込め政策が実現したわけです。

  • 1951年8月15日 周恩来声明
    「条約草案は、単に日本が台湾と澎湖諸島の権利を放棄すべきと述べているだけで中華人民共和国に返還されると言及がない。これは合衆国政府が中国の領土である台湾の占領を長期化する目的があるからだ。中国国民は台湾開放という神聖な任務を決して諦めないだろう。」
  • 1951年9月8日 サンフランシスコ講和会議にてソ連グロムイコ外相が中国擁護の演説

尖閣諸島については、こうした状況にあって、誰もその帰属に関心をもつものがいなかったというのが実情でしょう。もしこの時点で中国が統一政府のもとにあれば、多分問題にされたのでしょうが、沖縄でさえアメリカの施政下に置かれるわけですから、アメリカから言えば、台湾と沖縄の間に線を引く視点などなかったということになります。

サンフランシスコ講和会議

  • 1951年9月8日調印、1952年4月28日発効
  • 日本と48ヶ国が調印
  • 出席したが調印しなかった国
    ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキア
  • 招待されなかった国
    中華民国、中華人民共和国

原貴美恵「サンフランシスコ平和条約の盲点」を読む(3)に続く(予定)