これまで朝鮮半島、台湾、そして北方領土と、日本の敗戦処理はどのように進められたかを見てきましたが、アメリカの方針は、当初、日本の非軍事化、民主化が基本でしたが、朝鮮戦争や中華人民共和国の成立という東西冷戦構造が明確になるに従って、日本の位置づけが反共防衛の前線と変化していき、保守層の温存、限定的な武装化の道を進むことになったということです。
要は、アメリカにとって、東アジアにおける「脅威が、日本の軍国主義復活から共産主義の波及へと変化」していったということになります。
で、最後は沖縄ですが、沖縄は他の領土とは異なり、サンフランシスコ平和条約締結後もアメリカの施政下に置かれます。したがって条項も、放棄する領土を定めた第二条とは別になっています。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
条文には、国連の信託統治に置くこととするが、その提案がなされるまではアメリカ施政下に置くとあります。実質的には期限を定めずに、つまり(この時点では)恒常的にアメリカの支配下に置くということであり、その帰属先も示されていません。
沖縄の歴史
なぜそのような判断がなされたかの前に、沖縄の歴史を簡単に見てみます。
- 1429年頃 琉球王国成立(明の冊封国)
- 1609年 薩摩藩が侵攻、奄美群島は割譲、琉球本島は薩摩藩の支配下になるが、清にも朝貢
- 1847年 薩摩藩がイギリス、フランスに開港する
- 1853年 ペリーが浦和沖へ向かう前に立ち寄り、琉球国王に親書を渡す
- 1872年 琉球処分により琉球王国から琉球藩になる
- 1879年 琉球藩廃止、沖縄県設置、この頃まで清の冊封国であり、これにより清との間で問題化
- 1895年 日清戦争後、台湾の割譲とともに日本帰属を承認(?)
- 1941年 太平洋戦争
- 1945年3~6月 沖縄戦
- 1945年9月2日 敗戦
となり、以後、沖縄はアメリカ軍政下に置かれます。
平和条約案の変遷
- 当初は、中国への移譲、国際管理、日本による条件付き保持の三案を検討
- 1946年1月 GHQ が奄美群島以南を日本の行政から分離
- 1947年3月頃 小笠原群島とともに日本が放棄する案が提案される
軍部が領有を主張していた模様
また、中国(蒋介石国民党政府)がその領有を強く主張していたらしい - 1947年9月 南千島とともに日本に留める案が提案され、軍部に反対される
マッカーサー書簡に「我々の太平洋前線防衛に絶対不可欠であるため、米国に属さなければならない」と文面あり
この時点では大きく分けて、
- 主に軍部が主張していた「アメリカによる恒久領有、戦略的信託統治」
- 主に国務省が主張していた「主権を日本が保持したまま長期保有」
の二案が検討されていたようで、もちろん軍部は大きな犠牲を払って手に入れた沖縄ですし、対ソ連封じ込め戦略上でも重要でしょうし、マッカーサーの強い反共主義も影響していたかもしれません。
対して、国務省はアメリカによる沖縄統治をためらっていたらしく、その理由は、もちろん領土不拡大という原則やソ連との駆け引きという面もありますが、沖縄を領有することのリスク、「文化外観ともに全くの異邦人75万人を統治するという報われない任務」やそれに伴う金融支出を恐れていたようです。
- 1949年 中華人民共和国成立、その後の朝鮮戦争を経て、アメリカの方針は沖縄の長期保有となる
長期保有の方法は揺れ動いたようだが、その基本は、- 日本の放棄を規定しない(領土不拡大原則に違反しない)
- 信託統治を提案
- ただし、実質はアメリカの独占支配
- 1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約締結
- 条文では沖縄に関して日本の主権を認めているわけではない
- ダレスが講和会議で、日本は沖縄に関して「潜在的主権」を保持すると発言
帰属先を明確にしないこの方法は、先に見てきた朝鮮半島、台湾、北方領土と同じで、その理由について著者は次のように述べています。
- いずれの領土も、対ソ、対中戦略上、明確にすることができない、あるいはしないほうが得策であると考えた。朝鮮半島にはすでに2つの国あり、中国大陸はすでに同盟関係であった国民党政府ではなく共産国となっている。
沖縄の処遇については、ソ連が占領している北方領土とリンクしてしまっている。アメリカが沖縄を領有すればソ連の占領も正当化される。 - 曖昧にしておけば、「将来の係争の種」として残すことができる。つまり、領土問題が、日本を西側陣営として確保しておく「楔」となる。
この2がどういうことかと言いますと、この時点と現在とでは随分国際環境も変わっていますが、現実に、竹島、尖閣が韓国や中国との係争地となっています。つまり、係争地があることで国家間の対立が生まれ、国民感情も反中(対共産化)へ誘導できるということです。
結果としては韓国は西側陣営に残ったわけですが、サンフランシスコ平和条約締結時はかなり緊迫した状態だったでしょうし、実際アメリカは朝鮮半島の共産化を覚悟した時期もあったようです。
まあアメリカがどこまで先を読んでいたかはわかりませんが、現実に尖閣があることで日中は対立しますし、竹島問題だけではないにしても、韓国が中国寄りになっていくことをみますと、著者の見方があながち間違いではないような気がします。
こうした不安定な時期に講和を急ぎ、それも単独講和という道を選んだのも、これ以上アメリカの占領が続けば、日本国内で反米感情が高まり、日本への共産主義の影響が拡大するのではないかと恐れたこともあるのでしょう。
サンフランシスコ平和条約締結後の沖縄
- 1953年12月 奄美大島返還
- 1956年8月 ダレスの恫喝(「サンフランシスコ平和条約の盲点」を読む(3)北方領土)
- 1957年6月 アイゼンハワー大統領、日本の潜在主権を再確認
- 1962年 ケネディ大統領、日本国の一部と認める
- 1965年1月 ジョンソン大統領、「極東自由世界における安全保障の利害関係がこの願望の実現を許す時」、沖縄及び南方諸島を返還するとの基本方針
- 1967年11月 ジョンソン大統領と佐藤首相、返還への検討を合意
- 1968年8月 小笠原諸島等南方諸島返還
- 1971年6月 沖縄返還協定調印
- 1972年5月15日 沖縄の「施政権」が日本へ返還された
同時に、日米安全保障条約及び地位協定が沖縄にも適用され、アメリカ軍の駐留は継続される
沖縄返還は、もちろんいろいろな要素が関連した中で進められたことですが、やはり大きくは1971年7月15日のニクソン・ショックに象徴されるアメリカの東アジア戦略の転換の中で実現したことです。
なお、尖閣については、アメリカは、沖縄返還時から「沖縄と一緒に尖閣列島の施政権は日本に返すが、主権問題に関しては立場を表明しない」との方針を表明しています。