加藤典洋著「戦後入門」読中読後メモ(3)の続きです。
やっと本題の憲法九条の論考に入ります。
加藤氏は、日本国憲法の全文と第九条には、
41年8月の大西洋憲章以来、42年1月の連合国共同宣言、43年10月のモスクワ宣言(一般安全保障に関する四国宣言)、44年10月のダンバートン・オークス提案、それに45年6月国連憲章と続いてきた「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想」の実現を目指す第一次大戦以来の国際社会の平和理念の流れが結晶しています。
と評価しています。
日本国憲法制定の経緯
- 1945年10月4日、マッカーサーが憲法改正の意向を示す
- 46年2月までに、政府系2案、日本共産党案、民間の憲法研究会案、自由党案、進歩党案、社会党案などが相次いで検討される
- 2月1日、政府松本委員会案を毎日新聞がスクープ
GHQ はこの案では目的が達せられないと見切りをつけ、
- 46年2月3日、三項目のマッカーサー・ノートをもとに GHQ が草案作成に入る
- 2月10日、草案完成
- 2月13日、GHQ は、日本政府案を拒否しマッカーサー草案を提示
- 3月6日、憲法改正草案要綱として公表
- 11月3日、公布
この本では触れられていませんが、3月6日の公表後には、本来日本占領に関する最終権限を持っていた極東委員会が憲法草案について何も知らされていなかったことで、GHQ と対立するというようなこともあったようです。
日本国憲法第九条のもつ意味
加藤氏は、第一次大戦からの国際情勢を考えた場合、第九条には、
- すべての国は今後、武力の使用の放棄に到達しなければならない。そのために、
- 一層広範かつ恒久的な一般的安全保障制度が確立されなければならない。
- しかし、それが実現されるまでの間は、過ちを犯したー前科あるー侵略国は主権を制限され、交戦権を剥奪され、武装解除されるものとする。
と理解するべきであり、2の安全保障制度が意味しているものは「国際連合」であると言います。
吉田茂に始まる戦後政治システム
この憲法第九条「非武装平和主義」は、その後始まった「冷戦」により、一年を待たずして、アメリカ自身から日本再軍備を迫られるなど大きく変質していきます。
対して、吉田茂は、憲法九条を盾にしてダレスの再軍備要求をはねつけ、
- 親米
- 軽武装(=平和主義)
- 経済中心主義
を三位一体とする経済ナショナリズム路線への道をひらきます。その後、その流れをくむ池田勇人、佐藤栄作に至る保守本流と言われる政権により戦後の政治システムが完成したと言います。
国民全体には、日本は無条件降伏で敗れたが今は憲法九条をいただく平和主義の独立国家だという認識をゆきわたらせ、「この国民のエネルギーを国政に動員した上で」、そのじつ「国政を運用する秘訣としては」、対米従属のもとー「戦前と戦後のつながり」という政治的感覚はカッコに入れてー、「自衛隊と米軍基地」によって軍事的負担を最小限にとどめながら、もっぱら経済大国化をめざす
つまり、
- 対米従属からくる政治的焦慮を経済大国化という自尊心で緩和する
- 米国の「傘」を最大限に利用する
- 再軍備要求を憲法九条を縦に最小化する
という政策により、対米従属が国益であるとの本音と日本は平和主義の独立国であるとの建前を使い分け、その結果、池田内閣1960年7月から佐藤内閣1972年7月まで12年間の高度経済成長を成し遂げたということになります。
しかし、この政策は内的矛盾を抱えています。
そもそも「自由民主党」は、戦前からつながった政党であり、党是である自主憲法制定は、対米独立を目指すことであり、「自己回復を実現するためには『米国』の後退を求めなければならず、安全保障のためにはその現存を求めなければならない(江藤淳)」という二律背反の関係にあるわけです。
その矛盾を隠蔽してきたのが「経済ナショナリズム路線」ということになりますが、その「魔法」が解けつつある今、どうするのか? これが加藤氏の問題意識ということになります。
矛盾の露呈
- 日本の経済大国化による「対米従属」の再顕在化
- 中曽根政権「戦後政治の総決算」
- 冷戦が終わり、戦後政治システムを支えてきた一方の「平和主義」の衰退
→社会党の崩壊、 - バブル崩壊~失われた10年
→自民党ハト派の溶解・解体 - 民主党政権の失敗
さて、いよいよ次は最後の章です。