『ヘブン』に続いて読んでみました。2007年下半期の芥川賞受賞作です。
読み始めて数ページ、その読みづらさに、ああ、何か面倒だなと、しばらく放置しておいたのですが、再び手にとって、読みづらいところは適当でいいか(笑)と読み進みましたら、そのうち慣れたのか、やっぱり言葉はリズムなんでしょう、文章になっていない文章やむちゃくちゃな句読点やそもそもの関西弁も苦にならなくなり、結構面白く読み切ることができました。
話し言葉っていうのは誰でも適当なもので、いちいち主語だの述語だの接続詞だのと考えて話す人はいないと思いますが、そんな話し言葉のような、ましてや主題があっちこっち行ったり来たりする文体が、まあそればかりではないのですが、そんな文体が入り交じった文章が関西弁の一人称で語られていきます。
ただ、この文体が成功しています。
語られる内容が女性の体のこと、「乳」は、主人公の姉「巻子」がなぜか執拗に受けたいと願う豊胸手術からであり、「卵」は、巻子の娘「緑子」が初潮をむかえ自身の「女」について悩んだり、主人公「わたし」が生理になる描写からのものといった具合ですので、標準語の整った文章で書かれていたら、シリアスさが強調されて、滑稽なところがあるこの小説の持ち味が死んでいたことでしょう。
「巻子」は、豊胸手術を受けるために関西から「わたし」が暮らす東京へやってくるわけですが、なぜそうしたいのかを語らないままとにかく豊胸、豊胸と語るさまはかなり滑稽ですし、どこか物悲しさを持って書かれています。
10年前に離婚していることや現在は場末のバーか何かでホステスをしていることや久しぶりに会った「わたし」には縮んで見えると表現されたりします。
二人で銭湯へ行く場面がありますが、巻子は他人の胸をじろじろと見て、大きいだの垂れているだのピンクだのと観察し、挙句いきなりそれまでタオルで隠していた自分の胸をぱっと広げ「わたし」に感想を求めたりします。
そうした痛々しい場面もどことなく滑稽に見えるわけです。
娘の「緑子」の方はと言えば、ある日突然に何も喋らなくなったらしく、今はノートを持ち歩いて筆談で会話をします。
その緑子の日記のような文章が、一人称の「わたし」の語りの間に挿入されていき、「女」を現していく自身の体への違和感が「体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく」とか「あたしの中に人を生むもとがある」 と表現されています。
そしてクライマックス、朝出かけたまま夜7時になっても8時になっても戻らぬ巻子を心配する二人の前に、巻子は酔っ払って戻り、元夫に会ってきたといいます。その理由は語られませんが、それをきっかけに巻子と緑子の日々の鬱憤やらあれやこれや何もかもがぶっちゃかり、「卵(たまご)」をつぶし合っての、ぶつけ合ってではなく自分の頭でつぶしたりという何とも奇妙な喧嘩が始まります。
そして、緑子はその争いの中で「お母さん!」と声を出して叫ぶわけです。
個人的趣味としては、この卵のシーンはオチをつけようとしているかのようで、「ヘブン」と同じく一気に話をつまらなくしていると感じますが、ただ、こちらの場合、ラストシーンで救われます。
この話、少し冷めた目で見れば、緑子は思春期特有の反抗期にあり、巻子の行動は中年から壮年を迎えようとする女性の焦燥感なんだろうとは思いますが、ラストシーン、二人が帰った後、シャワーを浴びて鏡の前に立つ「わたし」の描写が印象的です。
わたしは背筋を伸ばして、顎を引いて、まっすぐに立ち、少し動いて顔以外の全部を鏡に映してみた。(略)夕方の光と蛍光灯の光が小さく交差する湯気のなか、どこから来てどこへ行くのかわからぬこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、切り取られた鏡のなかで、ぼんやりといつまでも浮かんでいるようだった。
作家本人の心情を表しているようにも感じますね。