いやー、すごい本でした!
もう一度読み直さないと何か書くのも難しいくらいです。
この本が何であるかを的確に表現する文章が、著者本人のあとがきにありました。
発想の発端は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるのかを、思考実験をしてみたいということにあった。
ということです。
簡単にあらすじを書きますと、「ひのもと救霊会」という宗教団体の昭和初期から戦後すぐまでの盛衰を三つの時期の三部構成で描いています。
背景となる時代は、第一部が、五・一五事件をモデルにした部分がありますので昭和6,7年、第二部が太平洋戦争前夜の昭和15年頃、そして第三部が敗戦後の進駐軍占領時期ですので昭和20年頃です。
明治期に開教した「ひのもと救霊会」は、開祖行徳まさ、そして二代目教主行徳仁二郎により100万の信徒を抱える巨大宗教団体となっていたのですが、昭和に入り、国家弾圧により、神殿は破壊され、非合法化されます。すでに開祖まさは他界しており、仁二郎や主だった幹部は逮捕されているところから物語は始まります。
各部がいくつかの章に分かれており、それぞれ主に語られる人物が変わっていきますので群像劇のスタイルとも言えます。囚われた教主の代理を務める妻の行徳八重、秘蔵っ子的に育てられたらしい勝ち気な長女の阿礼、小児麻痺による障害をもち、幹部の堀江家に預けられている次女の阿貴、教団内の若手のホープ的な植田文麿、克麿兄弟、兄の文麿は陸軍士官学校生です。その他、阿貴を預かる堀江家の駒、民江など多くの人物のことが語られます。
そして、序章として最初に登場する千葉潔、貧困ゆえに、自らの肉を食って生きよと言い残して餓死した母の遺骨を持って「ひのもと救霊会」にやってきます。潔は堀江家で暮らすことになり、阿礼、阿貴の姉妹から好意を持たれた存在として、この小説の軸となる人物だと予想させます。
第一部では、そうした登場人物の背景や人となりを語ることで「ひのもの救霊会」の全体像を明らかにしていくわけですが、中に、幹事会や長老会議、そして弾圧のために分派していった他派との宗教論争といった章があり、やや文学書の枠を超えるような、もちろん超えていけないわけではありませんが、思想書のような部分もあり、冒頭に引用した著者の「日本の現代精神史を踏まえ」たものをという意識が強く感じられます。
「ひのもと救霊会」というのはどんな宗教団体か、大雑把にいいますと、神道をベースにしていますが、それが当時の国家思想、国体へと結びつくものではなく民間信仰として民衆との結びつきを重要しており、具体的には農村、農民重視、労働者との共闘という形として現れます。
また組織論としては、教主を頂点とした原始共同体的なものであり、本部のある(架空の)神部地域全体が教団そのものであり、また組織内には製糸工場(記憶違いかも)や新聞や教書を発行する出版部、そして病院まで持つ自給自足志向の強い団体です。
もうひとつ重要なのが、男女平等、女性の開放を(著者が)強く押し出していることです。開祖が女性であることをその理由のひとつとしていますが、国体思想が男系概念で構築されていることに相対するものとして強調されているのだと思います。
こうした思想は、神道系とはいえ、当時の日本が進めていた万世一系の天皇を不可侵とする国家神道と対立する概念ですので、当然国家弾圧を受けることになります。
つまり、終局的には「世なおし」を志向する集団ということであり、各所に革命集団を思わせる記述が出てきます。
あらためて思い返してみれば、上に昭和初期から戦後までの「盛衰」と書きましたが、「盛」の時期は過去のものとして書かれるだけで、第一部が弾圧により耐え忍ぶ時期、第二部は、皇国救世軍として勢力を伸ばした教団の分派が教主代理となった長女阿礼との婚礼という形での吸収を迫り、それを受け入れるという屈辱の時期、そして第三部は、戦後急激な復活を成し遂げたがために政府や進駐軍と対立し、ついには武装蜂起するも三日天下となり壊滅するという、言ってみれば苦難の時代のみが書かれていることになります。
第三部の武装蜂起については、正直、かなり唐突な印象を受けるのですが、そうした行動へ導いていくのが、千葉潔という存在に象徴され、全編を覆っている「ニヒリズム」という概念です。
「正義なく勝つ者の、勝利を無意味にする方法は、いまはただ一つ」千葉潔が言った。
貧者とは何ぞや、支配されるものなり
支配とは何ぞや、悪業なり
悪業とは何ぞや、欲望なり
欲望とは何ぞや、無明なり
無明とは何ぞや、執着なり
ああ、如何にして執着をのがれんや、ただ信仰によってのみ
信仰とは何ぞや、救済なり
救済とは何ぞや、死なり
死とは何ぞや、安楽なり誰が誦するともなく、門外不出の奥義書がとなえられはじめた。そう、千葉潔がその政治主義を救霊会にもちこむまでもなく、救霊会は確かに〈邪宗〉だった。
「ひのもと救霊会」は、ある種理想郷を目指しつつ、その裏側に常に破滅的な自己破壊欲望をもっている存在だということです。
この相対する概念を並列させるという手法は、この小説の全般に見られることであり、それは、二代教主の娘二人阿礼と阿貴がそうであり、植田兄弟もまたしかり、また、二代教主は獄中で亡くなるのですが、その教主の遺書が二通あり、一方が穏健な宗教的な光であれば、もう一方は影、ある種蜂起のアジテーションとも言える内容になっています。
簡単にあらすじをと言いながら、ここまで来ていしまいましたが、とにかく、ここに書いたことはこの小説のほんの一部、大筋だけです。
壮大な大河小説の趣ですので、当然様々な世の動きの記述も多いですし、五・一五事件に参画した青年将校の挫折と没落、戦時中南洋諸島へ布教と称して追いやられた女性の悲哀、スラム街や炭鉱に生きる人々の話、教団内の性的関係も含んだ制度の話などなど、多くの問題をはらみつつもすべて現代に通じる話ばかりです。
とにかく、1000ページを越え、殆どのページが文字で埋まるような大著ですが、読み始めれば、まず間違いなく引き込まれることになると思います。
もう一度読み直してみようと思う本です。