- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/10/19
- メディア: 文庫
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映画「沈黙‐サイレンス‐」マーティン・スコセッシ監督を見て、原作を読み直してみました。読み直すといっても、前回読んだのは云十年前の中学生(と記憶していましたが高校生かも?)の時以来ですので、細かいところはまったく記憶していません。
映画を見たあとに原作を読みますと、映像が浮かんでじゃまになることが多いのですが、ほとんどそうした感覚がなかったですね。多分、かなり冷めて映画を見ていたからではないかと思います。
それに、映画がかなり原作に忠実に作られていたことにびっくりしました。
まえがき
原作は、文体が4種類に変化しています。まず、最初が「まえがき」とされ、
ローマ教会に一つの報告がもたらされた。
の書き出しで、布教のために日本に渡ったフェレイラ教父が棄教したことが客観的事実を述べる文体で書かれています。
続いて、日本での布教の客観情勢を記述し、まえがきの最後はロドリゴの書簡が残っていると締めくくられ次へ続いています。
映画では、この部分もかなり忠実で、
- 宣教師たちが雲仙の温泉の熱湯をかけられるシーン
- フェレイラの教え子であるロドリゴとガルペが日本へ渡りたいと訴えるシーン
として描かれ、記憶では、教会というよりも空間が強調された白めの建物が使われていたように思います。神父たちが階段を降りていくところを俯瞰で撮っていたのが印象的でした。
1章~4章
続く1章から4章までは「ロドリゴの書簡」として、
- マカオでキチジローとの出会い
- 日本潜入、そして信者たちとの出会い、布教活動
- ロドリゴが追われる身となり逃亡、そして囚われの身となる
までが、ロドリゴ神父からローマへの手紙として一人称で語られます。
映画は一貫して第三者的視点で描かれていましたが、物語はほぼ忠実に進められていたように記憶しています。
5章~8章
そして、ロドリゴが囚われの身となってからの5章から8章までは三人称の記述となり、ロドリゴは「彼」や「司祭」と呼ばれて語られます。ただ、視点は常にロドリゴに向けられており、神的な視点というわけではなくロドリゴに寄り添っている感じだと思います。
ここには、ロドリゴ自身の宗教心や神の存在への自問自答、棄教したフェレイラとの対話、そしてロドリゴの棄教が描かれています。
あらためて読んでみましても、やはり映画は、ここのロドリゴが表現しきれていませんね。たしかに、ここも物語としては忠実に描かれていましたが、「そんなには褒めないよ。映画評」に書きましたように、ロドリゴの自己の引き裂かれるような苦悩が画からは感じられませんでした。
もちろん監督それぞれに手法があるわけですからこんなこと言っても仕方ありませんが、たとえば、映画の視点を客観的なものではなくロドリゴ自身に置くとかの手法を取るべきではなかったかと思います。
このパートの最後、ロドリゴが踏み絵を踏む場面を引用しておきます。
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
9章
ロドリゴ棄教後が淡々と三人称で語られ、中に「オランダ商人の日記」「役人の日記」といった文体の異なった部分が入っています。
井上筑後守とロドリゴの問答がありますが、ここに著者自身の苦悩や迷いのようなものが現れているのかもしれません。
井上筑後守は、ロドリゴに、亡くなった侍の名前である岡田三右衛門の日本名と妻を与え、江戸へ行くように言います。そしてこんなやり取りがあります。
井上は、自身も元クリスチャンなんですが、「日本国は切支丹の教えはむかぬ国であり、切支丹の教えは決して根をおろさぬ」そして、井上は「日本と申す泥沼に敗れた」のだと言います。
それに対し、ロドリゴが「私は自分自身の心にある切支丹の教えと闘った」のだと返しますと、井上は、ロドリゴがフェレイラにあの方(キリスト)が「踏むがいい」と言ったと話したことについて、「己が弱さを偽るための言葉ではないか」と言います。
このやり取りは、「信仰」というものを理解できない私のような者には、信仰とは極めて内面的なものではないかという意味においてとてもよく分かる問答で、それは逆に言えば、やはり「信仰」とは揺るぎないものとして、たとえばどんなに自己が引き裂かれようと「踏み絵」を踏まないことがそうなのではないかと思ったりもします。
原作にはありませんが、映画においては、ロドリゴの死後、妻が棺桶の中のロゴリゴにそっと十字架を握らせるという、極めて安易な方法でそうしたことを表現していました。
これが映画として深みのないものに終わっている一番の原因です。