10月29日付の中日新聞『視座』に宇野重規さんの『若者の保守化に思う』という論説が掲載されていました。
なるほどと思うところとどうなんだろうと思うところもあり、まずは共同通信のソースをとググったのですが、なかなか元ネタにたどりつけません。おそらくデータ自体は、メディアには公開(売る?)されたのですが一般には公開しないのでしょう。
ですので、「自民党支持率が最も高い20代…日本の若年層の保守化 : 国際 : ハンギョレ」からの引用です。
先日の衆議院選挙の際の出口調査の結果、自民党支持率が年代別で次の数字だったということが元ネタのようです。
- 全年齢帯____36%
- 18~19歳____39.9%
- 20代____40.6%
- 40~60代____30%序盤
- 70歳以上____40.2%
これを見ますと、たしかに平均値からは4%ほど高いようですが、4%の数字をもって、話題にするほど「若者の保守化」が進んでいるかどうかは微妙とも言えます。ただ、政治嫌いといいますか、議論嫌いといいますか、どうしたって政治に物申そうと思えば違う考えはいっぱいあるわけですから議論せざるを得なく、若者がそうした議論を嫌う傾向は強いようには思います。
で、この記事を書き始めたのはそのことではなく、この中で宇野重規さんが言っている
しかし、このような若者の傾向を、単に「若者の保守化」として総括すべきなのだろうか。
と疑問を呈していることになるほどと思ったからです。
宇野さんは、若者の政治への距離感に注目すべきだと語り、今の若者は、政治に関心がある者は多くはないけれども、環境問題、労働問題、財政問題、社会保障などへの関心は高いと言います。
つまり、「社会を変える」ことが「政治」だけに結びつかいない、宇野さんは、NPOの活動や「ソーシャルビジネス(社会的起業)」を挙げていますが、ボランティア活動もそうですし、社会への関わり方にも様々な形があると若者には見えているのではないかということです。
東日本大震災に限らず、災害があった場合の若者たちのボランティア活動をニュースなどで見るにつけ、今の若者はすごいなあと感心します。ある意味では、物言う前に行動、議論よりも実践ということで、それにより社会との接点を持つ若者も増えている印象ではあります。
そうした行動様式が社会へのコミットの仕方の多様化の現れであれば、あながち悲観するだけの未来ではないとも言えますが、そこに「思想」や「主義主張」やらが抜け落ちてしまう危険はないかと不安も覚えます。
政治の場面で言えば、「何でも反対する」とか「対案を出せ」とか、批判することを否定する人たちがいます。でもそれは、時と場合、ケースバイケースであって、少なくとも、政治の場面では、それは批判を封じるために手段でしかありません。
そもそも、権力は議論など前提にしません。押し付けてくるだけです。議論を前提にした提案であれば、議論をする相手に、等しく情報を提供する必要があります。情報を隠し、相手が同じ土俵に上がることを拒み、批判することを非難し、対案を出せとは議論のすり替えにほかなりません。
やや話がそれた感がありますが、何を言いたいかといいますと、もし本当に若者たちが保守化しているとすれば、それは婉曲的に服従化を強要する時代の流れの中で起きていることではないかということです。
もちろん、保守的であるかどうか以前に、これは若者たちだけではありませんが「政治(家)」への失望は大きいでしょう。また、社会への関心が生まれる10代に、民主党政権を失敗を目の当たりにしたことも大きく影響しているでしょう。
そうしたなかで起きた東日本大震災は、理屈抜きで、社会の脆さというか、現実の儚さは紛れもないものだと我々の前に突きつけたわけですから、どうしたって内向きの守りの意識が強くなるのは当然だと思います。
そうした内向きの守りの意識が、社会に対して肯定的に関わるつながることを良しとし、議論すること、さらに言えば批判することを嫌う傾向となっているのでないかと思うのです。
それに、ここでも二分化が進んでいるように思えてなりません。つまり、どんなカタチであれ社会へコミットしようと「あえて頑張る」層と内向きのままごく狭い社会で安心感を求める層とに。
みんな、ゲバラは好きなのにどうして?