白井聡著『国体論 菊と星条旗』と 内田樹著『日本辺境論』

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

 

冒頭、天皇の生前退位についての例の「お言葉」から書き起こしています。

これですね。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) – 宮内庁

白井氏はそこから、かなり政治的な意味合いを読み取ったと、つまり「お言葉」には、「戦後民主主義の秩序を崩壊の淵から救い出す」ためのメッセージが含まれていると語っています。

確かに、「お言葉」自体は、かなりインパクトのある出来事でしたし、実際、その中の「天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」とか、「憲法の下,天皇は国政に関する権能を有しません」という言い回しを考えれば、立場上言えないことを胸に秘めての「お言葉」だったことは間違いないでしょう。

一体何を胸に秘めているのかを知るすべはありませんが、白井氏が書いているように、ひとつには、安倍政権の有り様に象徴されるように、今、戦後築かれてきた何かが崩れつつあるという危機感はあるではないかと思います。

で、白井氏が言うところによれば、「お言葉」には、今上天皇の「象徴天皇論」とも言うべき核心があり、それは国民統合の象徴であるための「祈ること」とは「動くこと」、つまり戦地に赴き慰霊し、災害が起きれば現地に足を運び癒すこととの考えがあり、高齢によりそれができなくなるのであれば、「天皇の立場」にいてはいけないと考えているのではないかということです。

それに対して、安倍周辺の日本会議系の人物たちは、動かないでほしいと言っているわけで、これは私の考えですが、おそらく動かれてはじゃまなんですよ、戦地に慰霊に行かれれば、否が応でも戦争の加害者としての側面や悲惨さが思い起こされますし、被災地へ行かれれば、政治の無策があらわになるわけですから、「美しい日本」「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権にしてみれば、天皇は宮中にいて「祈ってくれていればいい」ということになるのでしょう。

で、この本の中心的な主題は、全く関係ないとは言えないにしても、その「お言葉」にあるのではなく、問題意識としては、「なぜこうも我々(日本)は主体性を持ちえないのか?」、もう少し具体的に言えば「なぜ日本は対米従属から脱せないのか?」ということだと思います。

その答は端的で、前作の『永続敗戦論』から考えを一歩前へ進めて、今の我々は、アメリカを天皇と戴く「戦後の国体」という概念に絡め取られているからだということです。それが「菊と星条旗」の意味するところです。

歴史というものは、いかようにも読めるものですので様々な見方が生まれるのですが、この見方、説得力があり、実にすんなり入ってきます。

実際、現実はその見方が正しいことを示しています。アメリカ大統領就任前のトランプさんに一国の首相が嬉々としてご機嫌伺いに行ったり、それをあたかも先手外交だと何の論評を加えることなく報じたり、確かにあの一連の恥ずかしい出来事は、安倍首相本人だけではなく、現在の日本の屈折した立ち位置を如実に示しています。

事例はいくらでもあります。

トランプさんとの話で言えば、安倍政権になってからアメリカからの武器購入が増大していること、武器を買うことでご機嫌を伺っているということでしょう。なんでも高額兵器は5年分割で購入することになっているらしく、その残高が2019年度に5兆3千億円になると東京新聞が報じています。

東京新聞:米から購入安倍政権で急増 兵器ローン残高 5兆円突破:社会(TOKYO Web)

冒頭だけ引用しておきますと、

防衛予算で戦闘機やミサイルなど高額兵器を導入する際、費用を複数年度に分けて支払う「後年度負担」の残高が二〇一八年度予算で初めて五兆円を突破し、一九年度は五兆三千億円に達する見込みであることが分かった。輸送機オスプレイなど安倍政権で急増した米国製の高額兵器導入が、大きな要因となっている。兵器の輸入拡大に伴い、毎年の後年度負担の支払いも増加しており、防衛費の大幅増につながっている。

沖縄の置かれている、ではなく我々が置いている状況、なぜ冷戦が終わった時、アメリカとの関係を精算できなかったのか、なぜいつまでもアメリカが日本を守ってくれているという神話を捨てきれないのか、地位協定という不平等協定に「思いやり予算」などという皮肉なのだか、自虐なのだかわからないような言葉が通用し続けるのか。

とにかく、不思議なことばかりです。

といった、私などが直感的に感じる何とも言えないもぞもぞ感を、白井氏は、明治から敗戦までの「君臣相睦み合う家族国家」、つまり「戦前の国体」の「君」を天皇からアメリカにすげ替えた「戦後の国体」と規定して、それらが実に相似形を成しているとして、「国体の形成期」「国体の相対的安定期」そして「国体の崩壊期」の3つの時代に分けて説いていきます。

3つの時代に分けての論考は、あまりにひどい現在の対米従属への危機感から、「戦前の国体」が戦争という最悪の形で崩壊したことに重ね合わせているのだと思います。

確かにひどい現状ですね。本来自主独立を掲げなくてはいけない右翼が日の丸と星条旗を掲げてデモ行進するんですから。

右翼 星条旗 – Google 検索

論考の詳細は読んでくださいということですが、結局、この『国体論』を読んで思うことは、実は我々はそれを望んでいるのではないかということです。それというのは、アメリカに「隷属」するということなんですが、自ら何かを決しなくてはいけないということは実に大変なことで、それよりも何かに委ねてすむのであればそれに越したことはないという、自虐的に言えば奴隷根性ともいうべきものが民族的なアイデンティティとしてあるのではないかとさえ思ってしまいます。

ただ、それでは人間、アイデンティティ・クライシスを引き起こしてしまいます。何か抜け道(神話)が必要です。

アメリカは日本を理解している、アメリカは日本のことを考えてくれている、トモダチ作戦、ロン&ヤス幻想からのドナルド&シンゾー、これら幻想は、すべてあの瞬間から始まっています。

1945年9月27日、昭和天皇はマッカーサーとの会談のためにアメリカ大使館公邸に赴きます。マッカーサーは、昭和天皇が命乞いに来るものだと出迎えもしませんでしたが、昭和天皇の第一声、

私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。

を聞いて、その「高潔な人格」に感動したと、マッカーサー自身が『回顧録』で語っています。

これが事実であるかどうかわかりませんが、現実に、昭和天皇は戦争責任を問われることなく、天皇制自体も存続しているわけですから、このことが「神話」化されることに何の障害もありません。

「戦前の国体」の「君」が天皇からアメリカに変わった極めて「神話」的な瞬間でしょう。

現実的には、マッカーサーは天皇なくして日本を統治することは難しいと考えたとするのが正しいということでしょうし、白井氏はこのことをマッカーサーが征夷大将軍になったと書いています。

「上が変わったから」という、日本人特有の実に都合のいい、本来負わなくてはいけない戦争責任をうやむやにできる価値転換をおこなったわけです。

297p

ニーチェや魯迅が喝破したように、本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。

この現状を脱する道はあるのか?

白井氏は何も語ってはいません。

で、ふと思い出した内田樹著『日本辺境論』

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 

  

内田氏は悟りの人ですので、こうした従属的なアンデンティティを、中華思想に対する「辺境人」として理解し得ると書いていました。つまり、田舎であるがゆえに、都会人を装っても誰も気にしなく都会人として振る舞うことが可能になり、しかし、ある時、都会人なら都会人らしく振る舞えと糾弾された時にも、私は田舎者ですからと恥じることなく振る舞える私たちということです。

トランプ大統領の今が、この状況を脱することができる最後のチャンスかも知れません。