安倍晋三の系譜で三代と言えば、岸信介、安倍晋太郎、そして安倍晋三と、おそらく多くの人がおじいさんとして岸信介を思い浮かべると思いますが、そうではなく安倍家側のおじいさん、安倍寛に連なる三代というのことです。
政治家だったそうです。知りませんでした。それも、何と、1947年の選挙で大政翼賛会の推薦を拒否して当選し「東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した」反骨の政治家だったんですって!
十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場をつらぬき、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに出馬するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。戦後、日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した。(ウィキペディア)
『美しい国へ』も『この国を守る決意』も読みましたが、岸信介のことは語っても、安倍寛のことは一切出てきません。何だかわかりやすい人間です。
安倍寛
晋三自身は東京育ちでしょうが、選挙区は山口で、安倍寛、安倍晋太郎の地盤を継いでいるわけで、寛の生家はどこだろうと思いましたら、かなりの田舎ですね。GoogleMapに「安倍家の墓」と入れますと出ます(笑)。
家は土地持ちの素封家だったようで、寛は東京帝大に進んでいます。もう100年も昔のことですので詳しくはわからないようですが、卒業後、東京で自転車の製造会社を立ち上げているようです。今で言えば、大学在学中にIT分野で起業するみたいなもんですね。
その後結婚し、1924年に晋太郎が生まれています。前年の1923年には関東大震災が起きています。それが関係しているかどうかはわかりませんが、この時期に、事業をたたみ、離婚もし、地元に戻っているようです。寛が慎太郎を育てたということになりますね。
学生時代に結核を患っているようです。あの時代、結核は不治の病ですから完治したということはないでしょう。それを抱えて、1928年、33歳の時に衆議院選挙に立候補するも落選しています。その後、村長、山口県議を経て、じゃなく兼務だそうで、地方行政とはいえ、行政と立法(じゃなく行政チェックだね)を兼務できるってどういうこと?と思いますが、時代なんでしょう。議員や長は土地の名士がやるっていう時代だったということでしょう。
1937年、43歳の時、無所属で二度目の立候補をします。最初の立候補からそれまで、衆議院選挙は3回行われていますが出なかったんですね。
この時期の日本って、1931年の柳条湖事件から日中戦争に突入しています。1933年には国際連盟を脱退して孤立を深めて戦争への坂道を転げ落ちていた頃で、この選挙は、陸軍出身の林銑十郎首相が「政党のあり方が政府に対して翼賛的ではないとし、議会刷新の必要性に鑑み、衆議院を解散した(ウィキペディア)」ことによる選挙で「食い逃げ解散」と呼ばれています。少数与党だったということでしょうか。
寛の立場は、力を増し始めた軍部や既成政党とは一線を画し、新しい政治勢力の結集を訴えているようです。結果、定数4の山口1区で4番目に当選です。
議員としての活動記録はほとんど残っていないようですのでよくわかりませんが、政治的な立ち位置としては、次の選挙、1942年の大政翼賛選挙で翼賛会の推薦を受けずに当選したことがよく現しているでしょう。
1941年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入しています。
近衛文麿政権下の1938(昭和13)年 4月、国家総動員法公布。同年6月、勤労動員開始。平沼騏一郎政権下の1939(昭和14)年3月、陸軍大将の文部大臣・荒木貞夫を委員長とする国民精神総動員委員会設置。同年7月、国民徴用令公布。そして1940(昭和15)年10月、近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足ー。
当時の軍部は、戦争遂行のために一国一党制を敷こうとしていた。これに対し、第二次政権を担った近衛文麿らが中心となって大政翼賛会が組織され、政友会や民政党といった各政党もすべて解散してこれに合流したのである。(略)
そして日米開戦に踏み切った東条英機政権になると、この運動を総選挙の場で具現化させるため、1942(昭和17)年2月に翼賛政治体制協議会が設立される。政府や軍部の施策に忠実に協力する候補者を推薦し、その当選を図るための機関であり、陸軍大将の阿部信行を会長として貴衆両院や財界、在郷軍人会の代表者らによって構成された。
非推薦候補には相当な妨害があったようで、憲兵や特高の尾行監視は当たり前、演説会場には特高が陣取って、「弁士注意!」と怒鳴って中断させられるとか、それでもなんとか当選したというのがすごいです。
政治姿勢は反戦、反骨(反権力)ということでしょう。
しかし、残念なことに、寛は1945年8月の敗戦後まもなくの1946年1月30日に病状が悪化して亡くなってしまいます。享年51歳。
安倍晋太郎
晋太郎、その時、寛と同じ東京帝国大学(まだ改称前)に在籍する21歳の大学生。まだ被選挙権のない年齢ですので父の地盤をついで即政治家とはいきません。
1946年の選挙には後継として、寛のいとこである節子を妻に持つ木村義雄という人物が立ったとのことです。
敗戦時の晋太郎は、学徒出陣で滋賀航空隊に徴兵されており、1944年10月に入隊しています。本人が語ったところによりますと、特攻を志願していたとのことですので、戦争が長引いていればその後はなかったということでしょう。
その後、東京大学に復学、1949年に毎日新聞社に入社し、2年後の1951年に岸信介の娘洋子と結婚しています。
この結婚に岸の何らかの意志が働いているとすると何だったんでしょうね。この本の中にありますが、岸は寛のことをかなり評価していたらしく、敗戦間際の頃に、病床の寛を見舞っているらしいです。それに岸も山口出身です。
晋太郎自身に政治家になる意志があったのか、岸がそれを望んだのか、1956年に毎日新聞社を退社し、岸の秘書官になっています。そして、1958年の総選挙で山口1区から立候補し34歳で当選しています。
まあ、岸の影響力があったのは間違いないでしょう。ただ本人は口癖のように、
オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ。
と言っていたそうです。
この本では、寛の後継者として議員となった木村の後は周東英雄が後継として地盤を継いでおり、晋太郎が立候補する際にも、それを譲ることはなく、晋太郎は地元の若い連中による「長州青年同志会」なる熱心な支援組織を得て自ら票田を開拓したと書いています。また、在日コリアンの有力支援者も多く、後にそれがスキャンダルにもなっているようです。
まあいずれにしても時代が時代ですから、選挙は利権絡みでしょう。
安倍晋三
著者の青木氏は、安倍政権に対して批判的な方で、最近は日曜日のテレビ番組「サンデーモーニング」のアンカー的なポジションで隔週くらいで出演している方です。
この本でも、かなりいろんな人物を取材しているようで、いったい安倍晋三とはどういう人物かと寛や晋太郎の周辺や、晋三の幼い頃から小中高大一貫校の成蹊学園の同級生や教師たちに取材しています。
その結論は、「凡庸ないい子」以外の印象のない人物像しか浮かんでこないということのようです。岸信介に溺愛されたという証言は多くとも、特別政治に関心を持っていたとのこともなく、ただただ皆に好かれる「おぼっちゃま」だったということしかないと語っています。
生育過程や青年期を知る人々にいくら取材を積み重ねても、特筆すべきエピソードらしいエピソードが出てこない。悲しいまでに凡庸で、何の変哲もない。善でもなければ、強烈な悪でもない。取材をしていて魅力も感じなければ、ワクワクもしない。取材するほどに募るのは逆に落胆ばかり。(略)
しかし、それが同時に不気味さを感じさせもする。なぜこのような人物が為政者として政治の頂点に君臨し、戦後営々と積み重ねてきた”この国のかたち”を変えようとしているのか。
私も、なぜあの空虚な言葉しか話せない安倍晋三がこれほどまでに多くの人の心を掴んでいるのか不思議でなりません。というよりも、なにか見えない力による虚像だとは思いますが、少なくともその虚像を生み出す核は安倍晋三自身にあるのでしょうから、とにかく不気味としか言いようがありません。
成蹊大学法学部の名誉教授加藤節(取材当時71歳)は、安倍晋三は自分の授業を受けているはずだが全く記憶にないと言い、さらに
彼は大学の4年間で、自分自身を知的に鍛えることがなかったのでしょう。(略)最も大きいのは二つの意味で「ムチ」だということです。
ひとつは「ignorant」という意味での「無知」。基本的な知識が欠如しているということです。もうひとつは「shameless」という意味での「無恥」。芦部信喜を知らないなんてその典型でしょう。
とまで話しています。
芦部信喜の件は以下をどうぞ。
二つの「ムチ」とはなんとも辛辣ですが、自分が長く勤めた大学の卒業生への腹立ちなのでしょう。
結局のところ、空っぽの人物像が浮かんでくるだけなんですが、問題は、空っぽも核になり得ますし、また、それこそが一番怖いことです。