2022年下半期芥川賞受賞作です。単行本化第二作目での受賞です。前作の『象の皮膚』はアトピー性皮膚炎に苦しむ女性の話で、語り口が軽妙で面白い作品だったのですが、この『荒れ地の家族』は打って変わってかなり思っ苦しい作品です。
震災から10年あまり、いいことはひとつもない
東日本大震災から10年あまり、宮城県亘理町で暮らす40歳の植木職人、坂井祐治の思いが描かれていく話です。亘理町は仙台から南へ直線距離で25kmくらいの町です。海沿いの町ですので津波の被害は相当なものだったと思います。
この小説には、震災や津波という表現は使われていません。「災厄」「海からやってくるもの」「海が膨張」といった表現がされています。それだけに津波という一般名詞では表現しきれない恐ろしさが際立ってきます。
祐治がその災厄に襲われたのは造園業のひとり親方として独立した直後であり、その後生活の立て直しに必死になっていた矢先の2年後、妻晴海が祐治と一人息子の啓太を残してインフルエンザで亡くなっています。そしてさらにその6年後に再婚した知加子が流産し、時期はわかりませんがある日突然出ていってしまいます。
という男の悶々とした日々が語られていきます。
この小説で特徴的なのは、祐治個人の身の回りに直接震災で亡くなった者はいないことです。幼なじみの明夫が妻子を亡くしていることが語られはしますが、その明夫の顔を見るのもしばらくぶりであり、すぐにはそうとはわからない付き合いでしかありません。明夫の存在は後半にかけて次第に大きなものにはなっていきますが、それも苦しんでいる四十男の明夫という存在であり、祐治自身が明夫に重ね合わされているということです。
震災が「災厄」という言葉で語られているのはそういうことです。10年あまり経ってなお、生活全般に覆いかぶさってきている「厄」であるということです。
とにかく、いいことはひとつもない四十男のひとり語りです。
晴海の死と知加子の拒絶
再婚した妻知加子の職場へ行くところから始まります。すでに何度か同じ行為を繰り返しているようで、職場の同僚や上司によって、本人には面会の意志がないと拒絶されています。祐治本人もストーカーと見られているのだろうと語っています。
これ、祐治本人は気づいていないのでしょうが、こういうことがストーカーということだと思います。祐治の言い分としては、知加子が突然出ていった、話し合おうとしても拒絶される、離婚届が送られてきただけだということであり、祐治は流産が原因だと思いこんでいます。
祐治のひとり語り小説ですので、知加子も登場しませんし、どう考えているかはわかりませんが、この小説全体を通して感じることから言いますと、祐治は知加子のことをまったく理解していないと思います。それに、祐治はいまだに亡くなった前妻晴海のことが忘れられないでいます。亡くなっていることにかこつけて思いは当然と考えているようですが、知加子はつらいでしょう。50歳、60歳の再婚ではありません。
小説は正しいことを書くべきものではありませんので、仮に祐治がストーカーであっても小説的には何の問題もないのですが、著者の意識がどこにあるのかは興味があるところです。
結局、知加子とのことは最後まで何も変わらず、後半になりますと幼なじみの明夫の存在が表に出てきます。
明夫のがんと自死
明夫の父親の家の庭仕事の際に、幼なじみの明夫と遭遇します。まさしく遭遇といった感じで祐治にはすぐには明夫と認識できません。読んだその時にも、そのこと自体に違和感を感じましたし、幼なじみの家に行き、そこで我が家のように行動する人物を見てそれとわからないというのはどういうことなんだろうと思います。
考えられるのは、明夫がすっかり変わってしまっているということではありますが、津波で妻子を失い、それも確か(読んだのがひと月ほど前なので…)夫婦の仲違いで妻子が実家に戻っている時に震災にあっているということです。故郷を離れて暮らしていたということです。現在は地元に戻り、クルマ屋で働いています。改造車を販売している中古車屋のようでした。
さらに明夫はがんを患っています。これまた明夫のことを察するような内面的な記述がなく、最後まで祐治のひとり語りですので明夫が何を考えているのかわかりませんが、自暴自棄ということなのか、小説終盤になり、明夫が密漁に手を染めていることがわかってきます。
密漁グループがあり、潜ることのできる明夫はその手先(表現が違うか…)となっており、祐治は偶然それらしき光景を目撃します。後日、祐治はやめろと言ったことがあったように思いますが、結局明夫は逮捕されます。ただ、その日は現場を押さえられておらず釈放されています。
そして自死します。生きていることがつらかったんだと思います。祐治も同じ気持ちということなんでしょう。ただ、なぜ著者は明夫ががんを患っていることにしたんだろうと思います。
四十男の愚痴
震災がために苦しんでいる人物の話であることはわかりますが、あくまでもこれは小説なんだということで言えば、なんだか、うまくいかないのは自分のせいじゃないと言っている四十男の愚痴のように感じます。
それを意図した小説であればすごいなあと思いますが、多分それはないでしょう。
なぜ愚痴話に感じるかは、苦しさのひとり語りだからだと思います。それも苦しんでいるのは祐治本人と明夫だけのように書かれています。
特に気になるのは知加子です。祐治は知加子にまったく思いを馳せていません。理解できない人物としてしか書いていません。少なくとも互いに愛し合い、子どもまでもうけた人物をです。それを置いておいて晴海への思いばかりではそりゃ知加子も出ていってしまいます。
それが狙いの小説であればすごいとは思います。