ダグ・リーマン監督の「カオス・ウォーキング」をみて結構面白かったので原作を読んでみました。ただ、原作はこの『心のナイフ』から『問う者、答える者』『人という怪物』と続く三部作とのことですので、読んだといっても第一部だけです。
RPGアドベンチャーゲームのよう
ゲームのようといっても、ネットからの情報やドラゴンクエストとかファイナルファンタジーをプレイしているところを見たことがある程度の知識ですので、RPGアドベンチャーゲームなんてものがあるかどうかも知りませんが、そんな感じを受けたSF小説です。
そう感じた理由は、
- 主人公のトッドとヴァイオラがヘイブンを目指す(逃亡の)旅の物語
- その旅がいつまででも続く(あくまでもこの『心のナイフ』)
- その旅の途中に様々な妨害や障害が発生しアクション(ぽい)シーンがある
- その旅の途中で徐々に謎が明かされていく
- その謎に精神性が強調されている
といったところからです。
ただ、ちょっと違うかもしれないと思うのは、トッドがヘイブンを目指すわけはそこに何かがあるというよりも、自分が暮らしていたプレンティスタウンという共同体の軍隊に追われているという設定ですので、そうした逃げるゲームがあるかどうかも知らない前提の話です。
ネタバレあらすじ
映画では西暦2257年となっていましたが、原作に年数が設定されていたかどうか記憶がありません。そもそも未来であるかどうかもあまり重要ではなさそうです。地球から人類が移住してきたニューワールドという設定ですが、生活環境に関する記述は全くといっていいほどなく、その点ではほとんど地球上の話と変わりません。実際、第二波の移住船でやって来るヴァイオラは宇宙船の中で生まれたと言っていましたので時間感覚に大きな意味はなさそうです。
主人公のトッド・ヒューイットは13歳、プレンティスタウンで暮らしています。プレンティスタウンには男しかいませんので、トッドはベンとキリアンというふたりの男性に育てられています。プレンティスタウンでは14歳になると大人になります。トッドはプレンティスタウンの最後の子どもであり、あと30日で大人になります。
この「子ども」「大人」の違いといいますが、「大人」になることに小説上の大きな意味があるようですが、この『心のナイフ』だけではあまりはっきりしません。二部、三部で明かされるのかもしれません。
プレンティスタウンに男しかいない理由を、トッドはニューワールドには先住民のスパクルという生物がおり、スパクルとの戦争で女性がすべて虐殺されたと聞かされています。トッドの母親もスパクルに殺されたと聞かされています。
また、その戦争の際にスパクルは細菌をばらまき、そのせいでなぜか人間の男たちが頭の中に浮かべる思念や妄想がまわりに拡散して誰にでもわかってしまう「ノイズ」という現象が発生するようになっています。その細菌は女たちには感染せず女たちには「ノイズ」は発生しません。
プレンティスタウンには男たちの考えることがあたりに充満しています。音声という意味ではなくテレパシーのように相手の考えていることがわかってしまうという状態のようです。映画では音声や映像で表現されていました。
ある日、トッドはベンにりんごを取ってくるように頼まれて向かった沼地で「ノイズの穴」、つまり、ノイズが存在しない空間、と言いますか、あまり突っ込むところではありませんので想像でいいますと、何かの物質的存在は感じるが「ノイズ」が感じられないというふうに理解すればいいかなと思います。
で、トッドはその不可解な「ノイズの穴」のことを考えならが町を通って家に帰りますので町のみんなに「ノイズの穴」のことが知られてしまいます。プレンティスタウンには首長であるプレンティスや司祭のアーロンがいます。本の登場人物欄に司祭とありますのでそう書きましたが、正確にはよくわかりません。かなりイッちゃっている感じで神の言葉を説くと言いながら相当暴力的です。
トッドがベンやキリアンのもとに戻りますと、すでにトッドが「ノイズの穴」に出会ったことがわかっている二人はベンに地図と母親の日記をもたせてすぐに逃げるように言います。
そして、トッドは理由もわからず、目的もわからず、ベンに言われるがままにプレンティスタウンあとにして逃亡の旅にでます。プレンティスタウンでは首長プレンティスの指示のもと(多分)軍隊が結成されトッドの後を追います。
ということで、トッドは途中ヴァイオラと出会い、ノイズを発しない存在に驚きつつも、またヴァイオラはトッドが敵か味方かもわからないままに、ふたりは目的のはっきりしない旅を続けることになります。そして、二人の後を追うプレンティスタウンの軍隊です。
トッドとヴァイオラは、いくつかの共同体、ファーブランチ、バー・ヴィスタ(よくわからない)、ブロックリー・フォールズ(これもよくわからない)、カーボネル・ダンズ(ますますよくわからない)を経てヘイブンを目指します。
で、二人がヘイブンへ到着するも、そこにはすでにプレンティスタウンの軍隊が先回りしており、ヘイブンは制圧されてしまっています。首長プレンティスがトッドに言います。
「ようこそ、ニュー・プレンティスタウンへ」
重要なことを忘れていました。プレンティスタウンに女たちがいないのは、スパクルに殺されたのではなく、男たちが、自分たちの考えていることが女たちにダダ漏れになっていることに耐えられなくなり全員殺害してしまったからです。
ということで第一部『心のナイフ』は終わります。
子どもが大人になることとは?
第一部の『心のナイフ』を読んだだけですのでこの小説の全体像はつかめていまんせん。その上での話ですが、やはりテーマは、映画「カオス・ウォーキング」のレビューでも書いているように「子ども」が「大人」になることの意味じゃないかと思います。
トッドは旅の途中で、スパクルと出会い、格闘の末ナイフで刺し殺します。母親を殺されたと(思い込まされている)の思いもあったのでしょうが、憎しみからの殺意があらわになり、ヴァイオラが「やめて!」と叫ぶものの聞かずに殺してしまいます。
多分「憎しみ=心のナイフ」でしょう。トッドはその後自らの成した行為に悩むことになります。
ただ、原題は「The Knife of Never Letting Go」ですので逆の意味合いかもしれません。もちろん現実面ではトッドが持っているナイフを指しています。
第二部、第三部と、この物語がどう進むのかはまったく予想がつきませんが、この『心のナイフ』を読む限りは、そうしたトッドの葛藤がテーマとなっていくのではないかと思います。
もしそうでなければ、この小説、面白くはないでしょう。
映画「カオス・ウォーキング」との違い
映画ですから、仮にあわよくば続編という色気があるにしても、やはり一定程度の物語の結論(オチ)が必要です。
トッドとヴァイオラの旅はプレンティスタウンからファーブランチを目指す旅で終わっており、そのファーブランチで首長プレンティスとの決着がついています。
また、ヴァイオラが第二波の宇宙船からニューワールドに降り立つ経緯も映像として描かれています。トッドがプレンティスタウンから逃げることになる経緯もそのヴァイオラを助けることが経緯となっています。
トッドとヴァイオラの関係も、原作には男女という異性を意識させる記述はありませんが、映画ではトッドが異性を意識する関係としてヴァイオラは存在しています。トッドはヴァイオラとのキスを夢想し、実際にそのシーンもあります。
そうした映画の描写には、原作の第二部、第三部が反映されているのかもしれません。
こうした超長編の小説を一本の映画することは、「砂の惑星」でも明らかなようにほとんどうまくいくことはないと思われます。その点から言えば、映画「カオス・ウォーキング」はそれなりにうまくまとめられていたというのが、原作を読んでの感想です。
小説としてはやや冗長で、斜め読みをしたくなる作品です(ペコリ)。