映画の印象があまり良くなく、原作はどんなものかと読みました。2017年上半期の芥川賞を受賞しています。
映画との関連で言えば、この小説を、書かれていることそのままに映像化しても何も生まれないだろうと思います。
あえて重要なことを書かないことで成立している小説です。「日浅」という男の人物像とその後、東日本大震災そのもの、「今野」自身のセクシュアリティ、それらはこの小説の重要なポイントであり、それがなければ小説自体が成立しないにも関わらず、あえてそれに触れることを避けています。
それに、かなりそれら重要ポイントからは距離を置いていますし、そのこと自体が作者の多いに意図するところだと思われます。
芥川賞の選評を掲載しているサイト「芥川賞のすべて・のようなもの」を読んでみますと、吉田修一氏が高い評価をしているその選評に「実際、ほのめかし小説であると私も思う」というものがありますが、このことを言っているんだろうと思います。
その意図はさておき、その点、映画では、今野のセクシュアリティに対して少し突っ込んだ描写を入れていました。今野が突然日浅にキスを迫るシーン、今野が以前付き合っていた和哉と実際に会うシーン、そしてラストに今野が新しい男性と付き合い始めているシーンです。
これらすべて、小説にはありません。和哉と電話で話す場面があるのみです。
映画は、ある意味かなり大胆な脚色を加えているのですが、それでもなお、映画として見えてくるものはなかったということです。
映画の批評はこちらです。
では、この小説は何かということですが、こういうことじゃないでしょうか。
すでに書きましたように、作者はあえて何かを書かない手法を用いています。その書かないようにしている、つまり隠そうとしていることそのこと自体に引きつけられるかどうかが、この小説への評価になるんじゃないかと思います。何を隠しているかではありません。隠しているそのことにそそられるかどうかという意味です。
私はそそられませんでした。ただ、93枚の短編ですので最後まで読み切れはしました。
選者の選評で言えば、村上龍氏の
推さなかったのは、「作者が伝えようとしたこと」を「発見」できなかったという理由だけで、それ以外にはない。
や、宮本輝氏の
ならば、この言葉をもっと深い部分からえぐり出して、読者に投げかけるべきだ。あえて書かないというカモフラージュをして、うまく逃げたなという気がしたので、私は授賞に賛成しなかった。
と同様のことを感じます。
また、最初数ページ読んだ印象は、気取った文章だなあということと、全体としても主語が省略された文が多いんですが、その主語がある一文の中ですっと入れ替わってしまう文体だなあということです。例えば最初は、
勢いよく夏草の茂る川沿いの小道。一歩踏み出すごとに尖った葉先がはね返してくる。かなり離れたところからでも、はっきりとそれとわかるくらいに太く、明快な円網をむすんだ蜘蛛の巣が丈高い草花のあいだに燦めいている。
しばらく行くとその道がひらけた。行く手の藪の暗がりに、水楢の灰色がかった樹肌が見える。
もっとも水楢といっても、この川筋の右岸一帯にひろがる雑木林から、土手道に対し斜めに倒れ込んでいる倒木である。これが悪いことにはなかなか立派な大木なのだ。ここから先は、この幹をまたいで乗り越えなければ目的の場所までたどり着けない。
と、こんな感じです。
タイトルとなっている「影裏」、映画では、今野が知らなかった日浅の「影」であり「裏」の面という意味に取りましたが、小説の中には、震災後、今野が訪ねた日浅の父親の家のシーンでその言葉が出てきます。多分、映画にもあったものを見逃したのでしょう。
杉とはまた別種の脂臭さが香る、落葉松を床材に使ったきゅうくつな客間。黴を拭き取ったらしい痕跡が点々と残る北側の壁には日めくりのカレンダーが掛けられている。これと向かい合わせに電光影裏斬春風と、滴るような墨汁で書かれた模造紙が四隅を画鋲で留めてあるのが奇妙にわたしの目を引いた。
鎌倉時代の臨済宗の僧、無学祖元の語録にある漢文のようで、夏目漱石の「吾輩は猫である」にも出てくるとのことです。
自国(南宋)にて元の兵士に囲まれ刀を向けられた時の言葉、
乾坤、地として孤筇を卓する無し
喜び得たり、人空、法も亦た空
珍重す大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬る
(禅語「電光影裏斬春風」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト)
で、意味は、この世の全ては空、たとえわたしを切っても稲妻が光る間に春風を斬るようなもので手応えもないだろうということのようです。
悟りの言葉だとは思いますが、この小説ではそれ相応の掛軸ではなく、「滴るような墨汁で書かれた模造紙」を画鋲で留めてあるというところに意味があるということでしょう。
たしかに全体として「生きることの切なさ」のようなものが感じられる小説ではあります。ただ、あまりにも日浅という人物を隠しすぎているというきらいがあり、それが同性愛的なものであるかどうかには関係なく、日浅という人物が魅力的に見えなく、今野が惹かれているそのことに実在感がないのが問題かと思います。