ひと月くらい前ですか、この戯曲を原作とした映画を見て映画自体には身も蓋もない批評を書いてしまったんですが、それが気になったのか、原作の戯曲を読んでみました。
いかようにも息を吹き込むことができる戯曲…
その映画評はこちらです。
批評の要点は何をやろうとしているのかわからないというもので、言い換えれば登場人物がみな亡霊のように見えたということです。
これもまたひどい言いようですが、原作となっている戯曲を読みますとますます何をやろうとしたのかわからなくなります。長崎というロケーションに戯曲どおりの人物を配置しただけにしか見えません。
この戯曲ならいかようにも人物に息を吹き込むことは出来るはずなのにです。
台詞を変えることなく相反する感情を表現する…
やたら「…」の多い戯曲です。
それだけ、言い淀んだり、言葉にできない思いが多い人物たちということですので、その思いをどう表現するかがこの戯曲のポイントなります。
戯曲の基本的な構造は噛み合わない会話によって成り立っており、その背景には「子どもの死」「失業」「不倫」、そして、それに覆いかぶさるように「暑さ」「水不足」というものがあります。
結局、戯曲に書かれていることは「喪失」「渇き」「行き詰まり」です。
問題はそれを、あるいはそこからどうするかが、舞台であれ、映画であれ、表現すべきところです。単に渇いています、行き詰まりましたでは、ああ、そうですかとしか言いようがありません。
こうした状況に置かれれば、「怒り」が生まれるかもしれませんし、「絶望」に打ちひしがれるかもしれません。あるいは「投げやり」になるかも知れません。
戯曲は、台詞をまったく変えることなく相反する感情や思いを打ち出すことができるもの、いわゆるテキストです。特にこの『夏の砂の上』はそれが顕著な作品です。
映画は舞台のようにはいかず…
結局、映画はそこに何も吹き込むことが出来ずに終わっているということです。
映画評に書いた「長崎のロケーションに頼り過ぎ、キャスティングに頼り過ぎ」とはそのことです。
映画はフィルム、今はデータですが、そこに人物も固定されてしまいますので生きた人間が動き喋る舞台のようにはいかないですね。