新聞の書評で興味を持ち読んだ本です。その書評がネットにありました。
東京新聞:落日 湊(みなと)かなえ著:Chunichi/Tokyo Bookweb(TOKYO Web)
湊かなえの新たなる代表作、今年最高の衝撃&感動作。重い十字架を背負って生きる人々の心の叫びと希望の灯。“落日”の向こうに見える未来とは!?入魂の書き下ろしミステリー長篇。新人脚本家の甲斐千尋は、新進気鋭の映画監督長谷部香から、新作の相談を受けた。『笹塚町一家殺害事件』引きこもりの男性が高校生の妹を自宅で刺殺後、放火して両親も死に至らしめた。15年前に起きた、判決も確定しているこの事件を手がけたいという。笹塚町は千尋の生まれ故郷だった。この事件を、香は何故撮りたいのか。千尋はどう向き合うのか。“真実”とは、“救い”とは、そして、“表現する”ということは。絶望の深淵を見た人々の祈りと再生の物語。(落日 – 株式会社 角川春樹事務所)
湊かなえさんの本は初めてでどんな小説を書いている作家なのかも知らなかったのですが、これを読んでいる途中で調べましたら、映画「告白」の原作者でした。
あらためて自分のブログ(そんなには褒めないよ。映画評)を読んでみましたら、自分でも恥ずかしくなるくらいふざけた文章でした(涙)。 言い訳をすれば、子どもが関係する犯罪をネタにしたエンタメの価値観にいやーな感じを受けたんだと思います。
で、この『落日』ですが、映画「告白」で感じたいやーな気持ちは原作のものかもしれませんね。この小説でも同じような感じを受けます。エンタメ系のミステリー小説ですのでやむを得ないところもあるかも知れませんが、虐待、いじめ、ひきこもり、自殺、そしてそれに関連した犯罪(殺人)といった子どもたちのまわりで起きている社会問題をネタにしている、つまり、子どもの悪意を、それに迫ることなく単に事象としてしか扱っていないのではないかということです。
もちろんそうしたことを描くことは文学や映画がやるべきことのひとつではあるのですが、この小説の場合は、ある事件やコトを描くとして、なぜそれが起きたのか、たとえば殺人が起きたとしてその犯人はなぜ人を殺すにいたったかに迫るわけではなく、その殺人の過程やコトの成り行きを解き明かしていくだけに過ぎません。
「香」が幼い頃にアパートのベランダ隔て板越しに手を握りあったの子どもは誰だったのか、また「真尋」の姉千穂の死の真相はどういうことだったのかではなく、「力輝斗」はなぜベランダに出されていたのか、あるいは「沙良」の悪意はどこからくるのかを描くべきではないかということです。
この小説が描いているのは、力輝斗がベランダに出されていたわけは親の「虐待」であった、千穂の事故の真相は沙良の意地悪な性格が原因だった、ただそれだけです。
子どもたちのまわりで起きている虐待やいじめをネタにしていると感じるのはそのことで、事件の原因に虐待やいじめを置いてプロットを組み立てているに過ぎないということです。
思いもよらず辛辣になってしまいましたが、実際、この小説を読み「笹塚町一家殺害事件」の経緯がわかったとしても、それによってその中心人物である「力輝斗」や「沙良」の人物像が目の前に立ち現れてくることはありません。
確かにこの小説の軸は語り手のふたり、香と真尋の物語であり、ふたりが事件の真相を探っていくということではあるのですが、本来、ふたりが事件の真相を知るということは、力輝斗や沙良、そして千穂の実像がふたりの前にふわーと現れることであり、それによりふたりが変わっていくという物語であるべきです。言い方を変えれば、それは読者がこの本の中で力輝斗や沙良に出会うことでもあるのですが、残念ながら(私には)力輝斗、沙良ともに最後まで何を考えどう生きたかったのか見えないまま終わりました。 特に沙良などは単に性根の悪い子どもとして登場するだけです。
「文学」、そしてこの小説の中で作者が語っている「映画」が描くべきことは、起きたその事象だけではなく、そのことの深層ではないかと思います。
作家自身がこの小説の中で大畠先生に語らせている言葉から、
他人のリアルをネットで簡単に見られる時代に、頭の中で考えただけの物語は追いつかなくなっている。自分の足を使って、目で確かめて、リアルに追いついて、そこからさらに想像力で追い越す。そうしなきゃ、次の一〇年は生き残れない。
そのとおりだと思います。