映画を見て興味を持ち読んだんですが、 随分違いますね。
映画の感想はこちら。
随分違うというよりもまったく異なった作品になっていると言ってもいいくらいです。
まず人物像が全然違います。映画の行助はかなり寡黙な人物ですが、小説ではよく喋りますし朗らかです。もちろん小説は行助の一人称で語られますので心の声も活字になるということもありますが、それにしても映画の行助(仲野太賀)をイメージしながら読むのは難しいです。
初めて行助とこよみさんが話をするくだりはこんな感じです。
初めてこよみさんと話した午後のことだ。(略)目の前のこよみさんの顔をまともに見ることもできなかった。いただきます、と小声でいってたいやきを大きく齧る。うん、と思わず僕はいった。おいしいなあ。こよみさんは満面の笑みになって、胸を張って小さく叫んだ。そうでしょう!
その後も会話は親しげに続くことになります。そして春になるとふたりはときどき一緒に晩ごはんを食べるまでに親しくなります。
こよみさんの方は、映画の感想では肯定的な意味で実在感がないと書きましたが、小説では実在感があるかないかという視点そのものが浮かんではきません。
映画で冒頭とラストにこよみさんのナレーションで入っていた行助の目にふたつの色が見えるという話は、映画ほど印象的に使われているわけではありませんが小説にもあります。
そのくだり、
「初めて店に来たときのユキさんの目、忘れられないな。色が半分ずつだった」
「色? 何の?」
僕はハヤシライスを食べる手を止めて顔を上げた。こよみさんは笑みを浮かべて、僕の目をのぞき込むように上半身を乗り出した。
映画では少なくとも上半身を乗り出して行助の顔をのぞき込むこよみさんではないでしょう。ただ、ひとりで生きている強さのようなものは共通しています。映画では衛藤美彩さんがとてもいいこよみさんを演じていました。
小説では行助の家族が登場します。両親と姉が登場し、こよみさんについて、感じのいい人だねなどと話したりします。
映画ではこよみさんの母親が登場しますが、これまた実在感がないと言いますか、その場に行助はいるのにまるで昏睡状態のこよみさんが見る幻のような描き方がされていました。この母親は映画監督の河瀬直美さんが演じていたんですが、不思議な感じでよかったですね。このワンシーンだけの登場ですが、最後に行助にちゃんと面倒みるのよと言って帰っていきました。これには吹き出しそうになりました(笑)。
小説を映画化した場合、一人称小説の場合にはその違いが歴然としてきます。基本、映画は一人称では語りえません。いくら登場人物のナレーションを入れようがカメラは三人称です。時に神の視点にもなり得るのが映画です。
小説、映画、どちらも行助とこよみさんのラブストーリーですが、小説には、こよみさんに会うごとにときめきを感じていく行助の思いが書き綴られていきます。恋愛小説だとはっきりわかります。
映画はそのあたりをかなり内省的に描いています。それはこよみさんが記憶を失ってからよりはっきりしてきます。小説では行助のこよみさんへの思いに迷いはなく、前半と変わりなく連続しているように感じます。
映画の感想に「人は記憶を失えば他者と世界を共有できない」と書いたとおり、映画の行助はこよみさんと一緒に暮らしている記憶を共有できないことに苦悩します。その苦しさを明確に見せるためにこよみさんの(多分)元カレ、あるいは元夫を登場させています。小説にはその人物は出てきません。
これはとてもうまいです。脚本が中川監督と梅原英司さんの連名になっていますのでどこから発想されたのかはわかりませんが、この人物の登場によって映画的なクライマックスが生まれています。クライマックスが必要かどうかということもありますが、この映画では一段レベルが上がっているように感じます。
小説は後半になってもかなり雄弁です。高校生との会話がそのあたりのことを語っています。高校生が学校の勉強なんて役に立たないとこよみさんに相談とも愚痴ともつかない口調で語りかけています。そのくだり、
「役に立つか立たないか、それは本人にもわからない。(略)あたしたちは自分の知っているものでしか世界を作れないの。(略)」
「どういうこと? 今こうやって話してるのに、こよみちゃんと俺は違う世界にいるっていうわけ?」
「あたしの世界にもあなたはいる。あなたの世界にもあたしがいる。でも、ふたつの世界は同じものではないの」
「世界」に対する描き方は、小説と映画はまったく違います。映画の行助はこよみさんの世界に自分がいないことに苦悩します。
小説にも行助の嫌いなブロッコリの話が出てきますし、「昨日もいったのに、忘れたの?」と強い口調で言ったりします。ただ、こよみさんは「ごめん」と笑って、家を出ていくことはしません。
その時の行助の心情をこう書いています。
最後は声が大きくなっていた。覚えてないの? 覚えてないの? 暴力だ、と思った。僕が守っていくはずのこよみさんを僕が殴打する。(略)僕の悪意は影を残すだろうと確信している。どこかに、残る。海馬に記憶できなくても、こよみさんそのものに響いて、こよみさんを変えていく。それで僕はさらに苛立つ。僕の悪意はこよみさんを変えても、僕との暮らしはこよみさんを変えはしないのだ。
後悔は映画でも同じかと思いますが、映画の行助はその後、絶望しているように感じます。
小説は希望的です。こよみさんも自分が記憶をなくすことを自覚しています。
「月が明るいのに雨が降ってる」
泣いている。こよみさんは泣いている。今夜の満月は覚えているのだとふいに思った。
「まるきり思い出せないわけじゃないの」とあるときこよみさんはいったのだ。(略)」
こよみさんは静かに泣いている。
そしてラスト、
明け方の雨に静かに泣いていたこよみさんを僕は忘れない。(略)僕の世界にこよみさんがいて、こよみさんの世界には僕が住んでいる。ふたつの世界は少し重なっている。それでじゅうぶんだ。
と終えています。
映画は、こうしたこよみさんの実在感を意図的に消しています。
それによって映画は成功していると思います。ラブストーリー以上のものなっていると思います。