佐藤泰志著『夜、鳥たちが啼く』感想・レビュー・書評・ネタバレ

昨年の暮に映画「夜、鳥たちが啼く」を見て、佐藤泰志さんの著作は全て読んだと思っていたのにこのタイトルには記憶がよみがえらず、それでも映画のレビューに「佐藤泰志さんはこんな男女は書きません!」と断言した手前、収録されている『大きなハードルと小さなハードル』を借りて再度読んでみました。

佐藤泰志さんは映画のような男女を書いていません!

何度でもいいますが、「佐藤泰志さんは映画のような男女は書いていません!」

本当に脚本の高田亮氏はひどいです。原作の設定だけ借りて、原作とはまったく正反対の価値観で脚本を書いています。そして、原作者名を前面に出した宣伝をしています。

まあ、宣伝は制作会社や配給会社でしょうし、映画の方向性自体は脚本だけではなくそもそもの企画段階から「ままならない人生を誰もがもがきながら生きている(トレーラーから)」がコンセプトなんでしょう。

仮にそれがコンセプトであるのならばそれはそれでいいのですが、問題は、佐藤泰志さんの書く人物はその「もがき」を外に出さない、あるいは出せないのかもしれませんが、もしそのことを苦しいと理解するのであれば、その外に出さない苦しさが基本的なテーマなんです。あくまでも「もし」ですよ、そもそもこの原作は「もがき」がテーマではありません。

ですので、映画のようにその「もがき」を何の自己抑制もなく平気で外、つまりは他者にぶつけるような人物は佐藤泰志さんのものではありません。人物として正反対です。

それは高田亮氏のものです。

ヴィレッジ・ヴァンガードの夜

そもそも(が多い(笑)…)この小説の男、慎一はソニー・ロリンズの「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」を好んで聴き、ラストが「そうだね。でもそう考えただけで素晴らしいじゃないか」という会話で終わる小説を読むんですよ。

で、ときどきその一節を口にしたりしながら、

例の小説のしめくくりのように、そう考えただけで素晴らしいことが、僕にはあるのだろうか。あるとしてもだ。そんなことをわざわざ口にしなければならないほど、今の僕は深刻なわけではない。

と、自らにも強がる人物なんです。

そんなカッコつけた男が、映画のように、同棲している女にネチネチ嫌味を言ったり、浮気を疑って、女が働いているスーパーの店長を殴りに行くわけないじゃないですか!

もちろん原作にはそんな場面は一切ありません。過去に同棲していた話もありませんし、女もでてきません。裕子とセックスをした後に、「ガールフレンドは?」と聞かれ「五ヶ月前に別れた」と答えるだけです。

自殺という事実にとらわれすぎ…

佐藤泰志さんは1949年生まれで、ウィキペディアによりますと20代後半から自律神経失調症に悩まされていたそうで、1990年に41歳で自ら命を断っています。

その間、その著作は芥川賞の候補作として5回選ばれています。他の文学賞にも候補作とはなったもののどの賞も受賞はありません。文学賞の受賞が作品の善し悪しに直結するものはありませんが、やはり小説家としては候補とはなるものの受賞できないとなるとかなりつらいことではあるでしょう。

原作の慎一は事務機器の販売が仕事ですが、映画では作家になっています。それも一度は文学賞をとったもののその後書けずに悶々としている作家にしています。

佐藤泰志さんの実像を慎一に重ね合わせています。安易です。それもあたかも佐藤泰志さんが書けずに苦しんでいたかのように(そうは言っていないけど…)見せています。映画の慎一は作家仲間と飲んで当たり散らすんですよ。改変するにしてももう少し深みのある人物にしないとねえ…(涙)。

フランス映画のように…

じゃあ佐藤泰志さんの小説をどう映画にするか。

ヌーヴェルヴァーグ(ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグ)のように、しかないでしょう。

映画が原作からとっているものはその設定だけです。

一人暮らしの慎一のもとに友人の妻裕子が3歳の子どもとともに居候しています。理由はその友人が他の女に心変わりしたからで、一緒に暮らしているようです。慎一は、裕子たちを借りている部屋(2間くらいの貸家…)に住まわせ、自分は庭のプレハブの小屋に移っています。

ある夜、喉の乾きと腕のかゆみでビールと薬を取りに行きますと、子どもは寝ていますが裕子の姿がありません。慎一は裕子が夜遊びに出て男と寝ていることを知っています。裕子が帰ってきます。慎一は飲むか?と誘い、そして二人は関係を持ちます。

そして、後日、3人で花火を見に行くことになり、慎一は心のなかで家族というものを夢想します。そして慎一は裕子もそう夢想しているように感じます。

しかし、ふたりの会話はその不確かさを楽しむように続きます。つまり、「そう考えただけで素晴らしいじゃないか」ということです。

あらためて読んでみて感じたことは、佐藤泰志さんの書くものは台詞劇ですね。慎一と裕子の会話は本音であったり、その裏返しであったり、一人称小説ですので、心の声とは違うことを言ったり、逆に相手の言ったこと、そして言わなかったことを想像したりする、その台詞の間合いがこの小説のよさであり、ポイントだと思います。

ですので、それを生かすことができる脚本家の脚本で映画化すべきだと思います。そして、ヌーヴェルヴァーグ風にです。