1973年のピンボール/村上春樹その後2

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

  • 作者:村上春樹
  • 発売日: 2016/07/01
  • メディア: Kindle版
 

風の歌を聴け/村上春樹その後1 – 沈黙する言葉(旧)以降、随分間があいてしまった。すでに図書館への返却期限が過ぎている。今日返しに行こう。

で、「1973年のピンボール」だが、ん…どうなんだろう…。30年前の作品を今の視点で語っても意味はないのだが、それにしても、時代は違っても、何かこう、言葉の裏から立ちのぼって、今に迫ってくるような何かがあってもよさそうなものだが、私には何も感じられない。

「僕」も「鼠」もやたら、何か空虚さというか、やるせなさというか、そんなものを抱えているようだが、それは、言うなれば、「私、貧血なので朝すぐには起きられないの」と、誰彼なく自慢話のように語る女性に似ていなくもない。ん? この言い回し、あるいは女性差別にならないか? やや心配だが、ただ、この台詞を吐く男性にあったことはない。

女性がらみの話題で言えば、前作もそうだが、ここに書かれている女性には、まるで身体感(肉感)が感じられない。双子にしても、「鼠」の相手(ほとんど語られていなかったような)にしても、描き方は極めて表層的であり、言うなれば「僕」や「鼠」の鏡のような存在だ。さらに言えば、「鼠」も「僕」の一面であり、結局、この作品に描かれている人物は、「僕」たった一人であり、そして、「僕」は社会とも他者とも一切関係を持てていない。

この作品の発表年、1980年とはどんな時代だっただろう。70年前後の混沌とした時代とその後バブルへひた走る、ちょうど谷間の時代だったような、吹っ切れたやつは金儲けに走り、未だ引きずっているやつは、何かしようにも方向が見定まらない、さらにそのことにうんざりする、そんな時代の最後の時期だったような気がする。

その意味では、ある種、時代の空気とも言える「過去への執着」が色濃い作品なのだが、問題は執着している「過去」が見えてこないことだ。「鼠」の過去は女性だし、「僕」が突如後半から執着し始めるピンボールにしても女性のメタファーとして扱われており、結局、過去への執着=女性ということになるのだが、その女性が、先に書いたように一向にカタチとして立ち現れてこない。

結局、私には、懐かしさを懐かしがっている、その空気にまどろむことを楽しんでいる、そういった作品にしか読めなかった。

1973年のピンボール (1980年)

1973年のピンボール (1980年)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 1980/06/20
  • メディア: 単行本