年代順に読もうと思い、それなら次は「羊をめぐる冒険」なのだが、あいにく貸し出し中であり(あった)、先に「ノルウェイの森」を読んだ。
率直に言って、内容にどうこう言うほど感じるところはなかったのだが、いくつか気になることがある。
まず、第一章は、一体どうなってしまったのだろう? この小説を読まれた方でさえ、何のことだか分からないだろうから、簡単に説明すると、この小説の冒頭、第一章は、37歳の「僕」がハンブルク空港に降り立ち、飛行機のBGMで「ノルウェイの森」を聞いたがゆえに、20年前の回想に入っていくシーンから始まる。そして、第二章以降は、全てその回想に費やされる。最後の最後まで、37歳の「僕」は一度も登場しない。
これって、プロの作家でもアリ? 意図的? 何だか、子供が次の遊びに夢中になり、最初のおもちゃに見向きもしなくなってしまったような、そんな印象なのだが…。
それに、そもそも、その第一章の書き出しにしても、「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」とあるのだが、じゃあ、書いている今の「僕」は、いくつで、どこにいるの?
これって、私の勘違い? なら、誰か教えて欲しい。
さらに、
私が借りたのは、「村上春樹全作品」の内の1巻で、「自作を語る・100パーセント・リアリズムへの挑戦」という綴じ込み付録のようなものがついていた。読んでいる途中から、そのタイトルがずっと気になっていたのだが、我慢して、読み終わるまでとっておいた。
「リアリズムへの挑戦」って、まさかこの作品のことじゃないよなと、読んでびっくり、村上春樹は「ノルウェイの森」を書くにあたって、
一、徹底したリアリズムの文体で書くこと
二、セックスと死について徹底的に言及すること
三、「反気恥ずかしさ」を正面に押し出すこと
の3つをやろうとしたらしい。
いくらなんでも、この小説、リアリズムじゃないでしょうと、突っ込みたいところだが、よく読むと「リアリズムの文体」とあり、そのことも説明している。
村上春樹によると、小説の文体と筋は、乗り物と乗客のようなものであり、「ノルウェイの森」では、リアリズムという乗り物になるよう気をつかい、
僕の考えるリアリズムというのは、まず簡易でスピードがあること。文章は筋の流れを阻害せず、読者にそれほど多くの物理的・心理的要求をしないこと。感情というものをなるべく自立させず、あまり関係のないものにうまく付託すること。
ということらしい。
そもそも、小説を文体と筋とに分類すること自体が分からないし、リアリズムの文体って何? 上の引用を読むと、平易な文章で読みやすく、としかとれないんだけど、それってどうなの?
二の「セックスと死」についても、徹底的に言及しているとは全く思えない。どちらも極めて表面的な描写だし、「僕」にとってのセックスは、女と「寝る」ことだし、「僕」にとっての死は、周りの人間が、「僕」の記憶に残るために都合よく「死」んでいくことでしかない。
随分言い回しがきつくなってきた。ここらでやめておこう。
で、結局、強く感じたことは、1973年のピンボール/村上春樹その後2 – 沈黙する言葉(旧)にも書いたが、この作品でも、登場する人物が皆、「僕」の鏡でしかなく、直子やレイコさんにしても、別人格とは感じられず、「僕」=村上春樹の独白を読んでいるような小説であった。