人生には、その時自分は何をしていたかと、いつまでも記憶に残ることがある。3日を経てもなお、被害の全体がつかめないという、想像をはるかに超えた「東北関東大地震」もそうなるのだろう。
昭和45年11月25日。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決(という言葉はないと思うが)した日である。西暦では1970年である。昨年がちょうど40年にあたり、出版されたのだと思う。
この本は、その日その時をどうとらえ、何を考えたか、その後に新聞、雑誌、書籍などに掲載されたおよそ120人の証言を再構築したノンフィクションである。構成が時系列に沿っていることもあり、結構、時代背景を含めた全体像が浮かび上がってきて面白い(という言葉でいいのか…)。
中でも、翌年1月の群像に発表された大江健三郎のエッセイ「シンガポールの水泳」が興味を引く。その日、大江は、アジア・アフリカ作家会議のため、堀田善衛と共にインドにいたらしい。
この冬のさなかに、僕はシンガポールでひとり泳いだ。(略)
その一週間前、インドのベナレスで、(略)僕は日本人の一作家の割腹自殺を知ったところだった。僕は、たまたまアメリカの作家が僕に、ヘミングウェイの自殺は、生き残ったアメリカ人に対する一種の侮辱だ、と語ったことを、いくたびか思いかえしていた。もっともヘミングウェイは、作家の孤独のうちにひそかに閉じこもって死んだのであったし、かれはまた、民主主義を侮辱したのでもなかった。(略)
その次の段落からは、同じ45歳、シンガポールの洋上でなくなった二葉亭四迷の死について語り、
国際問題に、死に場所を見つける、と決意をあきらかにしながらも、二葉亭の言葉は、あとに残って、文学をやりつづける作家たちを侮辱してはいない。作家たちに対して無礼でなく、同時代の日本人一般に対して無礼でない。もともと、二葉亭の文学的努力は、かれひとりの「美学」の密室にとじこもる性格のものでなく、広く作家たちに対して、また日本語をもちいる人間みなに対して、無限にひらいていくところの、新時代の文体をつくりあげるための努力だったことをあわせ考えるべきであろうか。
その時、三島由紀夫45歳、大江健三郎35歳。政治的立場はまったく正反対(に見える)だったわけだから、一面的に見れば、名前で呼ぶことなく、一作家としか書かないほど、批判的に見ていたように読める。ただ、文章からは、自らが「侮辱された」と感じられるほどのショックを受けた気配が感じられる。
静かなる行動の人「大江健三郎」から、激情(劇場)家「三島由紀夫」への哀悼の言葉なのかも知れない。
いずれにしても、1970年とは、作家のみならず、誰もがその立場と行動を迫られる時代ではあった。