鹿島田真希「冥土めぐり」これは、イヤミでも何でもなく、グチを小説にした希有な作品かも…

冥土めぐり

冥土めぐり

 

不思議な作品です。私には分からない世界があるように感じつつも、その分からなさそのものが分かりにくいといった感じです。

いくつか疑問はあるのですが、まずはこんな話です。 

三十代前半(多分)の奈津子は、障害を持った夫太一をつれて、一泊二日の旅にでます。太一は、八年前に脳の病を発症し、電極を埋め込む手術を経て、今は四肢に障害はあるものの日常生活は営めているようです。

この旅は、出発の日まで「奈津子は自身にいっそう禁欲と清潔さを強い」ており、またその直前に、「借金苦で一家心中した家族」の話を持ち出し、さらにはっきりと「もう思い残すことはあるまい」と心情を語っていますので、夫婦死出の旅なんだろうと思わせます。

ただ、その思いに至ったわけは、夫の障害ではなく、「あんな生活」と語る自身の母や弟との関係、 生まれてからこれまで、ずっと引きずってきた自身の過去にあるようです。そうした思いが、旅の途中、回想というかたちで語られていきます。

奈津子が、この八年ぶりの思い切った旅を決断したわけは、その宿泊先にあります。たまたま町内の掲示板に「区の保養所の宿泊割引一泊五千円」のポスターをみつけたその場所は、子どもの頃に両親に連れられ泊まった高級リゾートホテルであり、母から「一生のうち、一度はあのホテルに泊まってみたい、みんなそう言う」と繰り返し聞かされ、そしてまた、正装した母の両親がサロンで踊る様を、モノクロの八ミリフィルムで何度も見せられてきた場所なのです。

しかし、一家は、父の死とともに没落したらしく、その後の母は奈津子の結婚相手に望みを託すなど奈津子に執拗に依存しており、弟は弟で借金を重ね、マンションを手放すまでになります。

ところが奈津子は、母の期待を裏切り、区役所の職員である太一を夫に選びます。母と弟は奈津子をなじり、それでも利用できるものは何でも利用するということなのか、太一を金銭的に食い物にしています。

ん…、こうやって書いていても、本当にこういう話なんでしょうかね? 確信が持てません。なぜかと言いますと、どう読んでも、回想で語られることが本当にそうだと納得できるような裏付けになる記述がほとんどないんです。

母からの電話のシーンや回想の中の母を見る限り、まあこの程度の見栄っ張りどこにでもいるよと思える程度ですし、弟がイタリア料理店でとる見下したような会話にしても、この程度可愛いもんじゃないと思えます。

現在の生活にしても、母や弟と同居ではなく、太一の年金と奈津子のパートで収入で、小さなアパートに暮らしているらしく、この旅行のために銀行から10万円引き出したとあります。もちろん、お金に余裕はないのでしょうが、母や弟から金銭的に寄り掛かられている逼迫感は感じられません。母が奈津子に、気に入ったピンクのカーディガンを見つけたので送ったと電話で言うくだりがありますが、一般的な親子関係にしか見えません。

今、これを書きながら一部読み返しているうちに、少し分かったような気がしてきました。あらすじを書くのをやめて、このまま疑問を書いていくことにします(笑)。

奈津子が結婚する前、弟が放蕩を繰り返して借金を抱えたとありますが、一方で、母の父は、戦争から戻った後、「小さな店の社長になり、一財産を築いた」ものの、「母親に遺産も残さずに、消滅し」たとあります。そもそも裕福だったと言っても、せいぜいが小金持ち程度であり、弟の放蕩も、もともと財産がないのですから、身代を食いつぶすようなものでなかったのでしょう。

その放蕩の様子の回想があります。弟は、一度就職したらしく、カードを作って有頂天になり、奈津子を飾り立て、キャバクラへ連れだします。この「飾り立てる」が、何とも奇妙で、実はこの物語の核心を突いているのではと思うのですが、弟はカードで買った洋服で奈津子を愛玩人形のように飾り立て、髪をとかし、香水を吹き付けて、連れ歩くことに快楽を感じるようで、さらに奈津子自身もそれをいやがっていたとは思えないのです。

つまり、奈津子の言う「あんな生活」とは、自身も含めた親子三人が、互いに傷をなめあうように思い出に浸りながら生きてきた異常な家族愛の世界ではないのでしょうか。

キャバクラの話に戻しますと、弟は見栄を張るために、奈津子のバッグから「一ヶ月分のパート代を抜き取る」とあります。着飾って行っているわけですから、バッグも持ち替えている、つまり、奈津子は分かって全財産を持って行っているということになります。

「母親と弟だけが、良かった時代の思い出に浸って、夢を見て夢を語った」とありますが、実は奈津子自身、抜け出したいと思いながらも、二人とともに夢を見ていたのかも知れません。

そう考えれば、この小説の不思議さも理解できてきます。多分、奈津子の頭に次から次へと浮かんでくる想念をそのまま言葉に表しているのでしょう。人間の頭の中なんて、論理的であるはずはなく、実に脈絡なく、次から次へと時空を超えて、あっちへ飛び、こっちへ飛びを繰り返しているわけで、もう死のうと思って旅立ったとしても、忘れてしまうこともあるでしょう。

一般的には、こうした想念が直接的に言葉になるものを愚痴というのですが、どんな愚痴でも、人が興味を持てば小説になるということです。これは愚痴を小説にした希有な作品なのかも知れません。

こうした視点からあらためてみてみますと、太一に対する愚痴が、愚痴とは見えない形で随所にちりばめられていることに気づきます。

母が語ったという「あなたが大きくなって、彼氏が出来たら、その人はきっとお城みたいなフランス料理店へ連れて行ってくれるわ」という空想も、奈津子をスチュワーデスにしたがった母の望みも、実は奈津子自身のものであり、それとはかけ離れた現在の自分を最も疎ましく思っているのも奈津子自身なのかも知れません。

99の接吻

単行本に収録されているもう一編「99の接吻」を読むと、言葉にされた想念ということがよく分かります。

母と四姉妹の濃密な関係が綴られているのですが、冒頭の数行に全てが書かれています。

うっとりとして目を覚ました。なんて素敵な夢。芽衣子姉さん、萌子姉さん、葉子姉さん、そしてわたし。わたしたちは手をつないで輪を作っていた。やがてその手はお互いの体温でくっついてしまう。さらにわたしたちの体は溶けてどろどろになり、一つになってしまう。

四姉妹は、「わたし」の想念の産物であり、全てが「わたし」自身だと考えれば、この異常ともいえる姉妹愛の物語も理解できなくはないでしょう。