「リスボンに誘われて」を見た後、すぐに図書館で予約しておいたのですが、映画の影響で予約が多かったんでしょう、やっと手に入りました。
つい最近、スティーブン・キングさんがインタビューで「私にとっては、映画は小説よりも下に位置する、はかない媒体だ(映画.com)」と、原文では「But I see them as a lesser medium than fiction, than literature, and a more ephemeral medium. (RollingStone)」と語ったとの記事を目にしましたが、ephemeral で本のように読み返すことができなく、見た瞬間の印象だけみたいな意味なんでしょうか? そのニュアンスなら、読み返すかどうかは個人の意思の問題ですので、本であっても同じようなものだと思うのですが、どういう意味で言っているのでしょう? まあいずれにしても映画と原作の関係はもう少し複雑だとは思います。
とは言っても、原作を読んで映画を見れば失望することが多いのも事実で、あるいは、この「リスボンへの夜行列車」も、そう感じた人がいるのではないかとは思います。
作者のパスカル・メルシエさんは哲学者であり、作中で主人公のグレゴリウスが読むことになる、アマデウ・デ・プラド作「言葉の金細工師」はまるで哲学書のようです。その上、その作中作だけでも相当の分量がありますので、読者はグレゴリウスとともに内省的に深く深く入っていかざるを得ません。
さらにグレゴリウスは古典文献学者ですから、「言葉」へのこだわりは並大抵のものではなく描かれています。そもそもの発端である、謎の女性が発する「ポルトゥゲーシュ(Português? Portuguese?)」という言葉の響きに魅了されるくだりにしても、また、最初はポルトガル語を解しないグレゴリウスが、言語学者ゆえのスピードで理解するようになっていく描写にしても、さらに数々引用される古典にしても、映画ではすべて(確か…)カットされていますし、そもそも映画は全編(確かそうでした…)英語で通されています。
原作への思いが深ければ深いほど、こうしたことが違和感となって、映画がつまらなくみえるかも知れません。しかし、映画と原作の関係は不思議なもので、ある瞬間、映画が原作を超えて光り輝くことがあるわけで、それは多くの場合、原作に従属することなく、原作の中からある一点を抽出することによって、原作の中でぼんやりしていたあることをはっきりと現出させることに成功しているからです。
映画「リスボンに誘われて」は、原作において、あるいは最も重要な要素ともみえる「言葉」に関わる多くのことをあえて捨て去ることで、むしろ原作においては、言葉で覆い尽くされ見えにくくなっている、ある核心的な部分を描こうとしているように思えます。
原作に、マルクス・アウレリウスの「自省録」から引用されている一節があります。
反乱せよ、私の魂よ、お前自身に反乱し、暴力を加えるがいい。だがその後には、お前自身を尊重し、尊敬する時間はもう残っていないだろう。なぜなら、誰の人生も、ただ一度きりなのだ。お前の人生はすでにおおかた過ぎ去ってしまった。・・・(略)・・・だが、自身の魂の動きを注意深く追わない者は、絶対的に不幸なのだ」
岩波版では若干訳が違って
せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終りに近づいているのに、君は自己にたいして尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ。
- 作者: マルクスアウレーリウス,神谷美恵子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/02/16
- メディア: 文庫
- 購入: 21人 クリック: 118回
- この商品を含むブログ (152件) を見る
となっており、この作品の訳とはニュアンスはやや違うのですが、おおよそ、人間は尊厳さを失うことを恐れるあまり、あるいは恥を恐れるあまり自分自身に正直になれないということかと思います。
それゆえ人は悩み迷います。ひとりグレゴリウスだけではありません。彼が務めるギムナジウムの校長コーギやリスボン行きの列車の中で出会うシルヴェイラも皆、「死」や「老い」を目の前にして、自分は本当に自分自身に正直に生きてきたのだろうかと悩みます。
何度も引用されるアマデウの「言葉の金細工師」の一説、
我々が、我々の中にあるもののほんの一部分を生きることしかできないのなら --残りはどうなるのだろう?
も、「死」を目の前にしたアマデウの心の叫びでしょう。
皆、自分自身への反乱を夢見ながら迷い続けています。アウレリウスの時代も、アマデウの時代も、グレゴリウスの時代も、そして我々もこの迷いから抜け出ることは出来ないのでしょうか?
がしかし、映画の中のグレゴリウスは実に見事に「自分自身に反乱」するのです。何の迷いも見せずに極めて自然に、一瞬にしてリスボン行きを決断し、そして驚いたことに、リスボンにおいてもベルンでの過去に囚われたりすることは一度たりともないのです。
原作のグレゴリウスがリスボンへの旅立ちに幾度も逡巡し、リスボンではアマデウを追い続けながらも常に過去を思い起こし、その度に過去へと引き戻されていることに比べたら、映画の中のグレゴリウスの何と潔いことでしょう。
グレゴリウスが授業を放り出して謎の女性を追ったり、何も持たずリスボン行きの列車に飛び乗ったり、ただただアマデウを追いかけることに夢中になることに、そんなことはあり得ないとか、うそっぽいとか、そうした疑問を持つ人はほとんどいないでしょう。
原作のグレゴリウスは、リスボンへ脱出することで「自分自身に反乱」しているようにみえますが、実はその境界線上で右往左往しています。そして最後は、「言葉以前の世界の静寂 LE SILENCE DU MONDE AVANT LES MOTS」にあこがれながらも、「病」の恐怖におびえながらベルンに戻ってしまいます。
まるで自分の分身であるかのように追い続けたアマデウ・デ・プラドも、自身への反乱を試みながらエステファニアという現実に打ち砕かれアマデウ自身考えるところの尊厳を失ってしまいます。
家族、友人、革命、すべてを捨て去り、エステファニアと二人で逃げたアマデウが「船に乗ろう、ブラジル行きの船に。」と語った言葉に、エステファニアは、
思春期の少年のロマンティックな思い込みでも、老いつつある男の通俗的な願いでもなく、あれは本物でした。現実的だったんです。(略)あの人は私を旅に連れて行きたがったけれど、それは彼ひとりのための旅だったんです。これまで顧みなかった魂の場所への、内的な旅。
と感じたと語ります。このエステファニアの心情はやや分かりにくいのですが、単純に考えれば、エステファニアはアマデウの中に自分への「愛」よりも「自らの尊厳」を保とうとしていると感じたということでしょう。
まあ昔から愛の逃避行なんてものはうまくいった試しはないのですが、それでもやっぱり、「愛」が人生を変える動機となる最大の要素であることもまた真実です。
実は、原作の中のグレゴリウスも、自分への反乱のきっかけを女性に求めようとしているのではないかと思える節が何カ所かあります。ナタリー・ルビン(生徒)、マリアナ・エッサ(眼科医)、セシリア(ポルトガル語教師)がそうです。
映画では、それをマリアナ・エッサひとりに集約させ、ラストシーンではっきりと言葉で表現させています。
Why don’t you just stay?
グレゴリウスの返事はなく終わっていますが、彼がリスボンに残ることは極めて自然であると映画は言っています。見事に映画的なエンディングです。
映画のグレゴリウスは、ものの見事に自分自身に反乱し、恥をかき、人生を変える(だろう)ことに成功しています。
「リスボンに誘われて」は、人にはある一瞬の熱情によって自分の人生を180度変えうる力が備わっていることを教えてくれています。「リスボンへの夜行列車」は、それでもなお人は迷いから解放されることはないのだと言っているようです。