日本の独立は神話か?=原貴美恵「サンフランシスコ平和条約の盲点」を読む(1)概要~朝鮮半島

「TPP 大筋合意」となり、大筋ってどの程度?というツッコミは置いておいても、安全保障に TPP ときて、ますます日本の「アメリカ51番目の州化」が進んでいます。

TPP については実際に発効するまでにはまだまだ紆余曲折があるかもしれません。日本の議会は今や大政翼賛会みたいなものですからすんなりでしょうが、アメリカは大統領選とかぶっていますし、そう簡単にはいかないでしょう。

それにしても「ジャパン・ハンドラーズ」に調教される「日本」という構図が真実味を帯びてきます。

「日本の独立は神話*1」とも言えるこの状態は何故なのか?

ということで、取っ掛かりに日本の敗戦前後のことを調べてみる気になり、まずはサンフランシスコ平和条約に関する本を読んでいます。

サンフランシスコ平和条約の盲点 《新幀版》

サンフランシスコ平和条約の盲点 《新幀版》

 

サンフランシスコ平和条約とは、敗戦のちょうど6年後に締結された日本と連合国の平和条約で、形の上での占領状態が終了し、日本が主権を回復したと言われる条約です。ただ同時に締結された旧日米安全保障条約によって、在日米軍の基地は残りますし、沖縄もアメリカの施政下のままです。 

で、この本(論文です)の問題意識は、アジア太平洋地域の未解決の領土問題がこの条約の曖昧さから発していることを明らかにすることのよう(まだ1/5くらいなので)です。

現在、日本は隣国との間に、尖閣、竹島、北方領土の領土問題を抱えていますが、実は、このところ中国の脅威としてよく語られる南沙諸島、西沙諸島の領土問題も、言われてみればああそうかということなんですが、 敗戦までは日本の支配下にあったわけですから、当然このサンフランシスコ条約でその帰属が明確にされるべきものだったということになります。

この本は、それらの領土問題を、アメリカ、イギリス、オーストラリアの公文書館の資料を元に七章に分けて論じています。

1939年当時のアジア太平洋地域の勢力図(上図)がありましたので引用しておきます。開戦直後の1942年頃にはさらに勢力(下図)を広げています。

Pacific Area - The Imperial Powers 1939 - Map.svg
Pacific Area – The Imperial Powers 1939 – Map” by derivative work: Emok (talk) World2Hires_filled_mercator.svg: Emok Image:Pacific_Area_-_The_Imperial_Powers_1939_-_Map.jpg – The borders for this map are primarily based on World2Hires_filled_mercator.svg and Image:Pacific_Area_-_The_Imperial_Powers_1939_-_Map.jpg, but some changes have been made based off information from other sources. Please edit the file if you have access to better information. The border of Manchukuo are based off Manchuria.jpg. The border of Portuguese East Timor is based off LocationEastTimor.svg. The border of Mengjiang is based off BlankMap-World 1939.png and The_location_of_Mengjiang_(as_done_in_glorious_mspaint).PNG. The borders of Tibet, China and Singkiang are based off the National Geographic “China Map 1945” and China_old_map_1936.jpg.. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.

 

Second world war asia 1937-1942 map de.png
Second world war asia 1937-1942 map de“. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ

朝鮮半島問題と竹島

で、まずは、第一章「朝鮮半島と竹島」ですが、朝鮮半島は1910年から敗戦まで日本に併合されており、敗戦から1948年の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立までは連合国軍の軍政が敷かれています。

敗戦前後までの朝鮮に関する主だった出来事をリストアップしますと、

  • 1894年 日清戦争
  • 1897年 李氏朝鮮から大韓帝国へ(清朝による冊封体制から日本の影響下へ)
  • 1904年 日露戦争
  • 1910年 日本による朝鮮併合
  • 1917年 (ロシア革命)
  • 1922年 (ソ連誕生)
  • 1931年 満州事変
  • 1937年 日中戦争
  • 1941年 太平洋戦争
  • 1945年 敗戦、直前にソ連が日本に宣戦布告し、朝鮮北部に侵攻
  • 1945年 38度線でソ連とアメリカ軍による分割軍政
  • 1948年 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立(共に傀儡か?)
  • 1949年 中華人民共和国成立
  • 1950年 朝鮮戦争(北朝鮮が南に侵攻)
  • 1951年 (サンフランシスコ平和条約締結)
  • 1953年 停戦

となり、1951年のサンフランシスコ平和条約というのは、米ソ中の対立関係の真っ只中で結ばれていることがよく分かります。当然ながら、敗戦国である日本は、その力関係の中で行く末が決定されたわけです。

米ソの対立は、その後東西冷戦となっていき、ヨーロッパでは敗戦国ドイツがその最前線として分割されますが、アジアでの最前線は(結果として)朝鮮であり、日本はアメリカ側に組み込まれることになります。

第二次大戦後の世界支配

この頃の力関係を世界規模の視点で見てみますと、

  • 1943年 カイロ宣言、米英中の首脳会談
    • 満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及
  • 1945年2月 ヤルタ会談
    • 米英ソの首脳が第二次大戦後の世界秩序(支配)を話し合った会談
    • 主題はヨーロッパの領土分割
    • ソ連を対日参戦させるための日本の領土分割の秘密協定
  • 1945年7月26日 ポツダム宣言
    • 米英ソの首脳会談後、米英中首脳名で日本に無条件降伏を求めた
  • 1945年8月8日 ソ連対日参戦

ポツダム宣言が発せられた7月26日は、すでにドイツが降伏(5月5日)した後であり、ヨーロッパではすでに冷戦の前哨戦が始まっていますので、ポツダム宣言にも終戦後の支配をめぐって様々な駆け引きがあったのだろうと想像できます。

要は、終戦後の対日処理とは、戦勝国の領土分捕り合戦であり、ソ連が満州、朝鮮全土、樺太、千島、北海道を求めていたことに対し、朝鮮半島については38度線で分けることに落ち着いたということです。

つまり、領土をカードにして駆け引きが行われたということです。例えば、アメリカ側から言えば、「北海道はダメだが、千島はあげよう、その代わり朝鮮は半分でどうだ」、ソ連側から言えば、「ヤルタで千島はくれるといったではないか、約束を守らないのなら、朝鮮すべてをもらう」みたいなことなんでしょう。

サンフランシスコ条約における朝鮮半島の処遇

  • 1945年8月 38度線の南北でソ連、アメリカの軍政
  • 1945年12月 米英ソ外相会議にて、5年以内の信託統治付託、暫定政府樹立の協議
  • 1947年9月 協議が行き詰まり、アメリカは国連総会へ委任(アメリカは朝鮮を諦めたか?)
  • 1948年5月 国連監視下で総選挙(北側は参加せず)
  • 1948年8月 大韓民国成立
  • 1948年9月 北は朝鮮民主主義人民共和国設立を宣言
  • 1948年12月 ソ連撤兵
  • 1949年6月 アメリカ撤兵
  • 1950年1月 アチソン・ライン
    • アリューシャン列島、日本、沖縄、フィリピンをアメリカの西太平洋防衛線とするもの、つまり、朝鮮、台湾は放棄している
  • 1950年6月 朝鮮戦争(北が南に侵攻、これは内戦)
    アメリカは国連軍として介入
    中華人民共和国が義勇軍として介入
  • 1951年7月 休戦交渉開始
  • 1951年9月 サンフランシスコ条約調印
  • 1952年1月 李承晩ライン(竹島、対馬の領有宣言)
  • 1953年7月 休戦

今あらためてこの時期の朝鮮半島を見てみますと、アジアでの冷戦の前哨戦が活発に行われていることがよく分かります。後に米中ソの三つ巴になる力関係も、この時点では朝鮮半島をめぐる米ソの争いであり、当然ソ連は太平洋への海岸線まで勢力を伸ばしたいでしょうし、アメリカにしてみれば、太平洋を確保できれば、なにも危険を犯してまで大陸に支配地域を持とうとする必要はないということになります。

日本はアメリカの西太平洋防衛線上の前線

ですから、アメリカの戦略としては、どこで西太平洋を防御するかということが主眼となりますので、それにより日本との平和条約の草案もその時々の情勢を反映したものとなっていきます。

  • 朝鮮半島についての基本は、日本の支配下から開放
  • 1946年ごろ 済州島、巨文島、鬱陵島、竹島、及び朝鮮の全ての沖合小島は朝鮮の一部
  • 1947年3月 平和条約初期草案 日本は、朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、竹島を含む朝鮮の全ての沖合小島の権利を放棄する

この辺りから、ヨーロッパでの冷戦進行に伴い、アメリカの対ソ戦略が変化し、アジアでも対ソ「封じ込め」に転換しつつあったようです。そうした転換期ということもあり、また朝鮮半島自体の分断や中国の内戦という現実的な混乱もあって対日講和は先延ばしになっていたのではないかと思います。

  • 1948年3月ごろ 日本を西側資本主義陣営に確保すべきとの方針を明確化
  • 1949年11月のシーボルト駐日政治顧問の意見書によると、領土条項に関して、線引きで明確にすることは日本人の精神的不利益(喪失感)につながり、つまり日本を西側陣営に留めるためには、領土問題は別に扱うべきと述べ、竹島の日本帰属も求めている

日本の政治も安定していない時期ですし、アジア一体の民族独立機運の高まりや中国での共産主義政権成立を考えれば、アメリカも日本の統治方法に慎重になったということでしょう。50年の1月にはアチソン・ラインも発表されており、日本をアメリカ防衛ラインの前線とする戦略が明確になったわけです。竹島についても、重要度がどの程度かは分かりませんが、朝鮮を失った時に少しでも日本の領土を広げておきたいという考えからのことかもしれません。

シーボルトは、「この四年間で極東の状況はアメリカに不利な方向に変化している。政治的に安定し有効な日本がアメリカに利益をもたらす。来るべき対日平和条約は、日本を平和な民主国家に再建し、その過大な人口を維持できる安定した経済力を達成させるという役割が、アメリカの第一義的な責任であり任務であることを明確にした草案であるべきだ。(要約)」とも述べており、ほぼこれがサンフランシスコ平和条約や日米安保条約の基本的な考えになっていると思われます。

  • 1950年4月 ダレスが国務省顧問に就任

これ以降、草案作成が本格化し、朝鮮戦争勃発もあって、日本のナショナリズムを刺激しない、より「寛大な平和」路線が追求されたようです。それ故なのかどうかは定かではありませんが、領土については明確な線引きがないまま、非公式協議に委ねる方針のまま進んでいきます。

ただ、このアメリカの草案は、各国との協議、特にイギリスとの協議では領土に関する曖昧さの指摘があったようで、最終的にはアメリカ案を基本としつつ「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵を含む挑戦に対するすべての権利、権原及び利益を放棄する」と「放棄する」が復活しています。

竹島については、草案時点で、大韓民国から竹島(獨島)も朝鮮の領土と明記するように要請があったのですが、米から突っぱねられています。

で、結果、朝鮮半島の領土条項には「竹島」は明記されませんでした。この時点では、アメリカは「竹島」を日本の領土としておく選択をしたと考えるべきでしょう。

この点について、筆者 原貴美恵さんは、アメリカは、朝鮮半島を喪失する可能性を考え、更に日本の西側陣営確保の確信もなく、あえて係争地として残したのではないかと述べています。つまり、朝鮮半島全土が共産化した場合、その影響が日本に及ぶこと(ドミノ現象)を恐れ、日本と近隣諸国との間に火種を残しておいたのではないかということです。私は少しばかり穿ち過ぎとは思いますが、結局は朝鮮全土の共産化はされなかったにしても日本と韓国の間の係争地になっているのは事実です。

それにしても、1950年前後のアメリカは、共産主義勢力に対してかなり受け身になっていたということですね。その意味では、日本の西側陣営としての安定化は、アメリカの安全保障のためには必須事項だったということになります。日本を「喪失」したらハワイが最前線になるわけですから、大きな犠牲を払った太平洋戦争が、たとえ日本から仕掛けられたにしても、無駄になってしまいます。

新米政権樹立と経済復興がアメリカの対日政策

敗戦後、まがりなりにも日本の独立が成ったといえるサンフランシスコ平和条約は、このように、アメリカの西太平洋戦略にもとづいて日本に新米政権を樹立し、安定した西側陣営の一員として経済復興させることが第一義とされたものだということです。

サンフランシスコ平和条約全文

第二章 領域

   第二条

 (a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

1951年9月8日 日本と48ヶ国の間でサンフランシスコ平和条約が取り交わされました。

ソビエト連邦、ポーランド、チェコスロバキアは出席しましたが調印せず、中華民国、中華人民共和国は招待されていません。

原貴美恵「サンフランシスコ平和条約の盲点」を読む(2)台湾~千島に続く

*1:この言葉は翁長知事の発言から