この『戦後入門』、結構話題になっているのではないかと思いますが、何と新書版にして2cmか3cmはあるのでないかという厚さで、正直読みにくい(持ちにくい)ったらありゃしないです(笑)。なぜこの製本を選んだのでしょう?
読みにくさのせいにしてはいけませんが、実はこの本、昨年出版されてすぐに図書館から借りて読み始めたのでですが、返却期限までに読みきれず、他に予約も入っていましたので延長もできずに終わった経緯があり、再度挑戦です。
で、読み切るには日数がかかりそうですので、整理のためのメモを残すことにしました。
加藤典洋氏の問題意識
- 現在、日本は対米従属にあるが、なぜそれが人々の意識にのぼらなくなったか?
- 対米自立を目指すことはナショナリズムに立つこととなり、戦前との切断を証明することを(自他から)求められるのはなぜか?
対米従属の歴史的経緯
- 1952年サンフランシスコ講和条約締結の時点では、対米従属は自明なことであり、皆自覚していた。
→日米安全保障条約締結によるアメリカ軍の駐留。 - 1960年安保闘争、高度経済成長路線を経て、対米従属という現実が緩和され内面化された。
→心理的にアメリカと自分を同じ側と感じるようになった。
→従属から所属への意識変化。
対米自立を成し、真の独立国となるにはどうすればいいか?
- 対米自立と日本国の生存の維持が二律背反(ねじれ)の関係にある。
→対米自立を求めた場合、アメリカは認めないであろう。
→日本は、その不当性を訴える先を持っておらず、
→主権を回復するため、交戦権の回復、核武装へと進む可能性もあり、国際的孤立化をまねく。
この二律背反、ねじれの正体とは何か?
ねじれによって起きること
ねじれは、敗戦によって価値観、国のあり方の骨折・断絶を生じることになった国に固有の運命である。日本の場合、次のような問題を引き起こしている。
- なぜ、戦後の日本人は、戦争の死者をうまく弔えなくなってしまったのか?
- なぜ、戦後の日本人は、占領軍から押し付けられた憲法を「よい憲法」だと思ったのか?
戦争の死者をうまく弔えないこと
誤った侵略戦争の先兵であったことは否定出来ない。そうした彼らにどう向き合えばいいか?
- 自分たちの(戦後の)価値観とは異なった人々だと(心の中で)切り捨てる革新派のやり方が戦後しばらくは主流であった。
→しかし、戦前のひとりひとりに思い至らないゆえに腰が軽く、人間観が浅い。
→自分が彼らの立場であったらどうできたかへの想像力が欠けている。 - 日本は正しかったのだと歴史的事実を捻じ曲げ、死者を称揚するやり方が増えてくる。
→歴史の現実を直視できていない。
→侵略先で悪をなしたのが自分たちの国の軍隊であるとの想像力が欠けている。
この二つは相似形をなしていると考える加藤氏の答えが『敗戦後論』であり、
私は、『敗戦後論』では、自分と価値観の異なることを前提としてうえで、それでもなお、自国の戦争の死者たちにしっかりと向き合い、弔うあり方と作り出したうえで、それを土台に、他国の死者、侵略国の人々に謝罪する、というみちすじがありうるはずだと考え、300万の自国の死者を追悼するあり方に基礎づけられて、2000万の他国の死者に謝罪するという、弔いと謝罪のあり方を、ここにある「ねじれ」に向き合うことから出てくる答えとして、提示しました。
といった感じで、『敗戦後論』の論旨が繰り返されています。
ただ、「加藤典洋著『敗戦後論』=戦争の加害者ではなく、犠牲者としての意識をうえつけられる戦後70年だったと思い知る。」にも書きましたが、この提案があまりにも観念的で、 じゃあ具体的にどう謝罪するのかということが見えてきません。
加藤氏は上に引用した部分の後に、「何遍も、何遍も、相手国から受け入れてもらえるまで謝罪を行わなければならないことは、むろん、いうまでもありません。」と続けていますが、現実は、50%を超える支持率を誇る安倍政権は「後世の世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはいけない」と言っているわけで、こうした自分が謝罪したくないことを先の世代に転嫁する論理を持ち出すことがまかり通るのが今の日本なわけですから、どう考えても、加藤氏の提案には現実性がありません。
押し付けられた憲法を「わがもの」にする方法がわからないこと
- 一つは、この憲法は良いものなのだから、押し付けられたことを重く考える必要はないとの考え方がある。
→正当な手続き(日本の国会で議決)を踏んでいるという押し付け否定論。
→長きにわたって堅持してきたことで「わがもの」となっているとの主張。 - 自分たちの手で憲法を変えることで「わがもの」にしようとの考え方がある。
→憲法九条は国家の基本的権利の侵害に当たるため改正する必要がある。
→自衛隊の存在などの現実に憲法を合わせよう。
この二つに共に欠けているのは、憲法九条の問題は未完成のプロジェクトであり、どう「わがもの」にするかが問題の核心であることの認識であると、謝罪の仕方と同様に『敗戦後論』での提案が述べられています。
『敗戦後論』では、この憲法を何らかの形で国民の審判の「火」にかけて、リスクを冒してでも、選び直す必要がある、この選び直しをへてはじめて法の感覚、制定権力の「力」がわれわれのものになる、という「選び直し」の提案を行いました。
続いて、この提案の観念性や抽象性に対する反省に立ち、この『戦後入門』で、「選び直し」によって得た「力」で何をするのかを提案するとあります。
次回に続く。