明治以降の日本の正史(?)では、ほぼ皇后は隠蔽された存在なのではないかと思います。ところが、実は皇后、皇太后という存在が歴史に大きな影響を与えているというのがこの本の内容です。
そもそも隠されているものを日の当たるところに出すという作業はかなり大変なことで、著者原武史氏は、あらゆる関連資料、「明治天皇紀」「大正天皇実録」「昭和天皇実録」などの正史はもとより、皇族や侍従、女官たちの回想録、日記、新聞報道、そして天皇や皇后が詠んだ和歌まで引用して、明治から昭和にいたる皇后の歴史を組み立てようとしています。
その結果が、650ページに及ぶ大著、厚さ4cmという分厚さの単行本となったのでしょうが、そのうち半分程度が大正天皇の妻節子(さだこ)、貞明皇后(ていめいこうごう)に関する内容に割かれています。
全体的な印象としては、「皇后」という存在に多方面から光を当てて、隠された日本の歴史を明らかにしようというよりは、著者が考えるストーリーを組み立てるために様々な資料が使われている感じがします。
そのストーリーとは何かと言いますと、
- 1926年(大正15年)10月21日交付された皇統譜令により皇統から外された「神功皇后(じんぐうこうごう)」の存在が明治、大正、昭和と続く近代天皇制に大きな影響を残している
- そもそも皇后とは、天皇の「添え物」ではなく、「努力を重ねて神功皇后や光明皇后のような過去の偉大な皇后と一体となろう」とし、さらには「女性神であるアマテラスに自らを重ね合わせよう」とする存在である
貞明皇后について言えば、
- 大正天皇の病状悪化の進行とともに、筧克彦の説く「神ながらの道」に傾倒し、自らを「神功皇后」に重ね合わせることでアイデンティティを保とうとした
- 1921年(大正10年)に摂政となった皇太子裕仁(後の昭和天皇)との間に対立があり、権力争いの面も否定出来ない
- 昭和天皇は、貞明皇后(母親)を恐れていた
- 「早期の戦争終結の方針を明らかにしていた天皇」に対して、貞明皇后は神功皇后の三韓征伐と結びつけ神国日本の勝利を信じていた
となります。
ただ、昭和天皇との関係について言えば、読み方によっては、太平洋戦戦争終結の決断が遅れたのは貞明皇后の存在があったからとも読めてしまいますし、昭和天皇の戦争責任を薄める「ご聖断」的神話を補完するものにならないかと危惧します。
ところで、この本の中心的キーワードとなっている神功皇后ですが、戦後生まれにとってはあまり馴染みのない存在で、「三韓征伐」も神話だったっけ?とか、お祭りの山車に乗っているあの人だよね程度にしか知らないのですが、ちょっとググってみてびっくりです。
大日本帝国の朝鮮支配の根拠にされたり、戦前は肖像が切手や紙幣に使われたりとかなりメジャーな存在だったようで、現在は「実在説、非実在説が併存」しているとあります。
こうしたことについて、あまりにも知らなさすぎますので、この本だけで近代天皇制を語ることなどできませんが、明治の支配層が西欧に追いつくための国家体制として天皇制を利用し、また天皇、皇族自身もそれに乗っかったことは間違いないでしょうし、神功皇后の三韓征伐が朝鮮半島支配の根拠とされたり、日本中に関連する祭りや山車があることを考えれば、明治、大正、昭和の皇后たちも天皇の「添え物」であったとは考えにくいことではあります。
それに、天皇家に一夫一婦制が持ち込まれたのは、大正以降であり、事実、明治天皇の妻美子(はるこ)、後の昭憲皇太后に実子はなく、大正天皇は側室の子であり、明治天皇には5人の側室に15人の子どもがいたそうです。
大正天皇は実質的には一夫一婦制だったようですが、この本によれば、「節子以外の女性に興味を示す嘉仁の『御癖』がなおらない」とあるように、実際にどうであったかは定かではなく、自ら一夫一婦制を導入し、女官制度を改革したのはイギリス王室に習った昭和天皇であったといいます。
ちなみに女官制度というのは、天皇や皇后の身の回りの世話をするとともに、側室候補でもあったようで、大正までは住み込みが条件だったそうです。
この流れの中で考えれば、四人の皇子をもうけ、皇后として、また天皇が病床にあったため20歳で摂政となった裕仁親王、後の昭和天皇の母の立場であれば、確かにかなりの存在感を示していたことは想像に難くないと思われます。
この本がどの程度事実に迫っているかは分かりませんが、隠された戦前の歴史はもっともっと明らかにされなくてはいけないとは思います。
ともかくも読み物としても面白い本でした。