映画「放浪の画家ピロスマニ」を見て興味がわき借りてみました。
著者の「はらだたけひで」さんは、絵本作家の方で岩波ホールに勤めてみえるとのことです。上の映画の1978年初公開時にスタッフとして関わられ、それ以来ピロスマニにすっかり魅了されてしまったようです。
その3年後には、新婚旅行として初めてジョージア(グルジア)を訪れられ、以後、ピロスマニの紹介や研究を続けられ、この本以外にも2冊出版されているようです。
ピロスマニは、生涯に1000点から2000点の絵を描いたと言われているらしいのですが、その数字の幅が示すとおり、その生涯も画歴もはっきりしないことが多いようです。1983年のカタログでは217点が確認されているらしいです。(数字は本の記述より)
その絵は、ググッて画像を見てもらえば分かるように、素朴そのもので、人物や動物の絵が比較的多いようです。描いてくれと頼まれることも多かったんでしょうか。
この本の冒頭にも書かれていますが、「百万本のバラ」*1の歌は、ピロスマニをモデルに書かれたものなんだそうです。
作詞:アンドレイ・ヴォズネセンスキー
作曲:ライモンズ・パウルス
映画にも酒場の舞台で踊る女性が出てきますが、ピロスマニがフランスからやって来た女優マルガリータに恋をしたとの逸話から歌は生まれたのですが、その真偽ははっきりしないようです。
もちろんマルガリータは実在の人物で、この本の90ページから紹介されていますが、1969年にパリで開かれたピロスマニ展に3日続けて訪れ、絵を見て涙を流していたとあります。絵を前にした写真も掲載されています。
そのエピソードをこの本から引用しておきますと、
ピロスマニはマルガリータに憧れ、彼女が働く店に通いつめた。ある日、有り金のすべてを使って、街中の花を買い、彼女の宿の前を花で埋め尽くした。彼女は感動してピロスマニと会う約束をするが、その約束の日を前に、彼に知らせることなく次の巡業地へと旅立っていった。
ということです。
その生涯は1862年 – 1918年ですので、56歳でなくなったことになります。再来年が没後100年になりますね。
生涯を通じて不遇だったようですが、1912年ですから50歳の時、「新しい芸術を模索していた」詩人イリヤと画家キリルのズダネヴィッチ兄弟に発見され、モスクワの画壇に紹介され、一躍脚光を浴びたようです。
しかし、それも長くは続かず、1916年、批評家がピロスマニと思しき絵描きに「兄弟よ、勉強したまえ。君の年でもまだ大丈夫…あと十年か二十年もすればいい絵描きになれるよ。その時には僕たちが君の絵を若手の展覧会に紹介してあげよう」と揶揄する戯画が新聞に掲載されたことを契機に、忘れられた存在になっていったとのことです。
その死についても不明なことが多いようですが、亡くなる直前は、ワインの貯蔵庫に使っていた半地下の穴蔵のような場所で寝起きしていたようです。
一生を放浪の画家として生きたピロスマニです。