新聞の書評だったと思いますが、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』という大杉栄の評伝が紹介されており、読んでみようと図書館の在庫を調べたところ、何人かの予約待ちでしたので先にこちらを読んでみました。ちなみに現在もまだ予約待ちです。
タイトルや副題にはでていませんが、この本もほとんど大杉栄をはじめとした大正時代のアナキストたちを取り上げた内容になっており、その主張や行動を通して、現代における権力と暴力について語ろうとしているのだと思います。
ただ、内容はともかく、何とも読みづらい文体の本です。
何を意図しているのか、あるいは他の著書もこういう文体なのか、口語体といいますか、「しゃべり言葉」的文体といいますか、さらにその上に平仮名表記が多く、読んでいても集中できません。
こんな感じです。
で、内容はと言いますと、まず第一章で、大杉栄を引用しつつ「国家とは収奪装置であり、暴力装置である」と言います。それは、単に言葉通りの暴力という意味だけではなく、国民に奴隷根性を植え付けることで、より巧妙に支配・非支配を隠蔽した構造をも意味します。
人は非支配をすすんで受け入れるとどうなるのか?
本来、人は「生きたいとおもう」存在であるのに、いつの間にか「生きのびたいとおもう」ことにすり替わってしまいます。それを、栗原氏は「生の負債化」と言います。
第三章では、大杉栄の「生の拡充」を引用しつつ、「生きたいとおもうことは、暴力をふるうのとおなじことだ。力はあばれゆくものである。」と言い、そして今「あばれようとするその力が、おさえこまれているのだ。」と、「生きたいとおもう」心を取り戻せと、大杉栄時代のストライキを取り上げ、
・・・仕事道具をぶちこわしてみる。会社の上司やゴロツキども、そして警官をぶんなぐってみる。火をつけて、会社ごとなくなればいいのにとおもってみる。・・・愉快だ。ケンカには負ける、たいていは負ける。でも、そうすることによって、自分は奴隷じゃないとかんじとる。
といった行為に、(多分)「生の負債化」をひっくり返す力の源のようなものを感じ取っているようです。
第五章は、「テロリズムのたそがれ」と題して、バクーニンとギロチン社を取り上げ、テロリズム=純然たる直接行動は、「犠牲と交換のロジック」に陥る危険性があると言います。
この章は特に分かりづらく、(テロリズムという)自己犠牲は人をモノ扱いにすることだから、それはもともと交換という資本主義のロジックであり、一旦そこにはまると、自分はこれだけのことをしたのだからこれだけの対価がほしい、あるいは大義名分のためには何をやってもいいという「犠牲と交換のロジック」に陥ってしまう、というようなことを言っているような、違うような、という感じです。
他に、第二章では「征服装置としての原子力」として、核について語っていますがやや飛躍が多すぎる印象です。第四章では、伊藤野枝を取り上げて、恋愛や女性について語っています。
『村に火をつけ, 白痴になれ――伊藤野枝伝』という著作もあるようですので、大杉栄が面白ければこちらも読んでみたいと思います。
ということで、全体として、あまりというか全然(笑)論理的ではありませんので、この文体に入り込んで読みきれば、著者の熱き心(逆説的には冷めた心)が伝わってくるのかもしれませんが、どこか、平和の国に生まれて息苦しさ感じている青年が革命の熱狂に憧れているようなところがあり、ある種憂さ晴らし的と言えなくなく、それがダメと言いたいわけではないのですが、結局抜け出られないんじゃないのと、やや冷たく言い放ってしまいそうな内容です。
あるいは、人生論的に読めば、「好きなように生きろ」と語っているのだとも言えます。