井上荒野著『だれかの木琴』 映画はほぼ完璧に原作を映像化しているし、原作を超えているかも。

映画「だれかの木琴」を見て面白かったので原作を読んでみました。

だれかの木琴 (幻冬舎文庫)

だれかの木琴 (幻冬舎文庫)

 

 映画のレビューはこちら。

ausnichts.hatenablog.jp

映画はほぼ原作に忠実に作られていますね。

人物像については、映画を見た後ですので、どうしても映像が浮かんでしまい判断は難しいところですが、ほとんど違和感は感じられません。

というよりも、小説自体に、小夜子と海斗の心理描写がほとんどありません。例えば、小夜子が最初のメールに返信する場面も、小夜子が携帯をながめている場面から一気に海斗がメールを受け取る場面に変わってしまいます。

同様に、小夜子がベッドの写真を送る場面も、迷ったり、戸惑ったりする描写はなく、ただここは、今届いたばかりの真新しいベッドの上で小夜子が自慰をする場面に続いて「携帯電話を手に取った」とあります。

と言っても、性的な描写は一切なく、「小夜子は自分でも信じられないことをしたー (略) 自慰をしたのだ」とあるだけです。

この場面は、映画でも、あるいはそうかなと思える程度の、小夜子がやや虚ろに体勢を変えて横向きに膝を折るカットを入れる程度の描写でした。

こうした心理描写のなさが、作者のスタイルなのか、この作品に限っての意図された手法なのかは分かりませんが、結局、その結果として、小夜子のストーカー行為は、本人の内的なものが分からないまま、それによって引き起こされる周囲の状況によって説明されるということになります。

引き起こされる周囲の状況についてもやや不思議なんですが、直接の対象である海斗はさほど嫌悪感や怖れを感じている風でもなく、むしろその恋人である唯の怒りが巻き起こす混乱や、小夜子の中学生の娘かんなのどうしてよいか分からない動揺によって表現されています。

ただひとり、夫光太郎だけは、なぜか心理的な描写が多いですね。

考えてみれば、これ結構多いパターンかもしれません。女性作家のほうが男性心理を書くことがうまく、男性作家のほうが女性を女性らしく(男性の望む女性という意味)書いたりするというのはあるかもしれません。

で、結局、映画はほぼ完璧に原作を描ききっており、さらに俳優の存在感においてその上をいっているかもしれないと思います。

ただひとつ、原作にあって映画でカットされていることと言えば、海斗にも、過去、カリスマ美容師 M へのストーカー(的)行為があったと本人が考えていることくらいでしょうか。

映画と切り離して原作について言えば、この小説、ストーカーを書いているというよりも、家庭の中から何かが喪失していく話だと思います。その「何か」が何かは難しいのですが、たとえば、日常という倦怠であったり、新鮮さや若さという、時間が必然的に生み出すどうしようもない人間の本質的な性みたいなものじゃないでしょうか。

読んでおいて何ですが、映画を見ていなければ、つまらなく感じる小説だったと思います。

あれ、「だれかの木琴」って、結局何のことでしたっけ? どこに出てきました?