映画を見て原作を読みました。
びっくりするくらい映画と同じでした。ああ、逆ですね、映画がほぼ原作通りに撮られていました。
細かいところまでかなり忠実でした。たとえば、セバスチャンがカミンスキーを連れ出す時のメイドさんとのお金の交渉でメイドさんが金額を釣り上げていくところとかも原作通りでした。
ここは違うというところは、割と重要なところでは、原作ではセバスチャンはカミンスキーの自画像を盗んでいませんでした。あとは車がジャガーではなくBMWであるとか(笑)、そんなところでしょうか。
この小説の単純な感想としては、映画を見ていなければ、さほど興味を持って読み進むことはなかっただろうという感じです。
一番の理由は、人物に対する距離感が取りづらいということです。映画のレビューでも書きましたが、小説も同じように、読むにつれ没頭していくというタイプのものではなく、ちょっと引いたところで、セバスチャンであれ、カミンスキーであれ、それぞれの人物をながめるという位置に読み手が置かれるということだと思います。
セバスチャンはとにかく利己的な人物であり、何でも自分のいいように取ってしまいますので、なかなか共感しにくいことと、仮にそうであっても、多くの場合多少は内省的な部分があるように人物がつくられますが、このセバスチャンは徹底的にエゴイストであり、映画ではダニエル・ブリュールのキャラクターのせいか憎めない感じもありましたが、小説では徹底的に嫌なやつです。
映画ではラストがはっきりしませんでしたが、小説でははっきりとセバスチャンの改心(?)が描かれています。多分これは、ヴォルフガング・ベッカー監督が意図的に曖昧にしたのではなく、結果として、言葉の明確さと映像の曖昧さが出たんだと思います。
同じ意味ですが、テレーザの現在の状態も、映画ではジェラルディン・チャップリンさんのきりっとした立ち振舞いゆえに、あるいはボケたふりをしているのではと思いましたが、違いますね、ボケているかどうかは分かりませんが、断片的に記憶が出てくるだけで、テレーザの記憶の揺れはさほど深い意味ではないと思います。
単純にカミンスキーは再会に失望するということだと思います。ただ失望しても、もうすでにそれがカミンスキーの人生に大きな影響をおよぼすことはありません。
いずれにしても、基本的テーマはセバスチャンの改心でしょう。
ただ、人間、そう簡単には改心できません。
何もないことを捨てるなどという「無」の境地にはそんなに簡単には到達できません。
ラストは、やや安易ということでしょう。
ところで、映画では、カミンスキーの娘ミリアムが10年前にテレーザを訪ねたくだりで、手紙を破いたのはテレーザととれる字幕になっていましたが、そうではなく、カミンスキーからテレーザへの過去の手紙をミリアムが取り返しにいき、ミリアムが破いたということです。多分、字数の制限による不正確さでしょう。