映画「武曲」を見て、その際、原作の読書メーターなど読むにつけ、むちゃくちゃ面白そうな小説だと思い読んでみました。
正直なところ、読書メーターなどの感想で想像したものとはまったく違っていました。
これ、映画化に向いていないです。
映画を見て上のリンクの記事で書いていることは、
- 焦点が定まっていない
- 青春ものとするなら爽快さも熱さもない
- 剣術ものとするなら緊迫感もスピード感もない
- 親子ものとするなら一面的すぎる
- 人間を情緒的、感傷的にとらえすぎ
といったところですが、最後の「人間を情緒的、感傷的にとらえすぎ」をのぞいては、そのまま原作にも当てはまります。
原作も何を追っているのかよく分からないですね。いろいろ入れすぎているのでしょうか?
もちろん軸は「剣道」ですが、経験者ではないからなのか、研吾や師匠の光邑の話が魅力的に感じられません。
研吾と父親との確執、あるいは研吾自身のトラウマもリアリティがなさすぎます。
ラップ命のような融が剣道に興味を持っていく過程もストンと落ちる感じがなく、研吾の父親に通じる殺人剣と言われてもそれをイメージさせるような描写がないです。
そうしたことで結局半分ほどで飽きてしまったのが実情です。
小説の構成は、各章交互に谷田部研吾と羽田融のことが第三人称視点で書かれていきます。ひとつの場面が双方からの視点で書かれていることも多く、それが理由というわけでもありませんが、全体として進展がもたもたしている印象を受けます。
映画では研吾は全編アルコール依存症で酔っ払っていましたが、原作の三分の一ほどは、過去に依存症の時期はあったが現在はアルコールを断っている状態、そしてちょっとした契機で再び飲み始め依存症に陥るのが半分くらい、そして残りが再び酒を断った後ということになります。
なぜ、映画は研吾を単なる酔っぱらいにしてしまったのでしょう?
って、そんなつもりはないでしょうが、さすがに原作の研吾はもう少し人間的にも奥行きがありますし、融が通う高校のコーチとしてそれらしき立ち振舞の場面も多く、剣士としての威厳を感じさせます。
父親を植物人間にしてしまったとのトラウマに悩まされるのは原作でもそうかも知れませんが、そう単純ではなく、むしろ剣の道が分からなくなっている(私もわからないので説明できない)ことの方が大きく扱われている印象です。
つまり、父親との立ち会いでは研吾自身も意識不明に陥っているわけで、もし父親への罪悪感だけであれば、その後剣道などやっていませんよね。
ただ、一体何が研吾を悩ませ続けているのかというのは、正直原作でもよく分かりません。ですので、それが映画にもそのまま現れているのでしょうが、むしろ映画化するのであれば、言葉では説明できないそれを俳優の存在そのものとして、あるいは映像として描くべきではないかということです。
融については、原作でも人物像を掴みづらいのは事実です。
ラップのリリックにこだわりを持っていることと剣道で使われる(らしい)滴水滴凍や三殺法、守破離、両刃交鋒などの言葉に興味を示すことの関連性やその後の経緯もはっきりしません。
融がもっている天才的な剣士としての才能(のようなもの)ももうひとつ分かりにくいです。
おそらく、映画は、その分かりにくさを幼いころに溺れかけ「死」と直面したとのエピソードで分かりやすくしようとしたのでしょうが、ダメですよね、そんな物語のテーマにも相当するような点を勝手に作っちゃ、それはダメです。
映画のレビューに書いている前田敦子さんが演っている役、確かに一晩共にしたのかどうかよく分からない女性がでてきますが、まるで違います。そもそも映画の研吾は、何度も言いますようにアルコール依存症ではなく単なる酔っぱらいに描かれていますのでいけないのですが、前田敦子さんはいわゆる酔っぱらいの男にはこの女というステレオタイプな女性に変えられてしまっています。
同じことが風吹ジュンさんが演っていた料理屋の女将にも言えます。酔っ払って、アンタ親父の女だっただろうと押し倒すって、どんだけステレオタイプ? さらに女将に「こんなおばあちゃんを…」って、何考えているのこの脚本家?
原作について書こうとしても、どうしても映画へ話がいってしまいます(笑)。よほど、映画に腹が(立つ筋合いの立場ではないのに)立ったのでしょう(笑)。
いずれにしても、原作のエピソードを幾つか引っ張り出して原作とは違うテーマに変えてしまってはいけないですね。
「オーバー・フェンス」もそうです。
「そこのみにて光輝く」もそうです。