角田光代著『私のなかの彼女』

私のなかの彼女 (新潮文庫)

私のなかの彼女 (新潮文庫)

 

映画「月と雷」をみて、原作を読もうとしたのですが、図書館では全て貸し出されていましたので書棚にあった最新のものを借りてみました。

書き出しはつまらないなあと思ったのですが、しばらく読むうちに、何だか甘い二人(和歌と仙太郎)だなあとあきれ返りながらも、どうなるんだこいつら(ペコ)と、逆に興味を持ってあっという間に読んでしまいました(笑)。

角田光代さんの作家としての自伝的な要素もあるのでしょうか、20代前半の女性「和歌」が作家として、客観的には成長していく、主観的には行き詰まりの連続みたいな20年間(くらいかな?)が「和歌」の一人称で書かれています。

時代背景をバブル期の1980年代後半からにしているのがミソですね。

バブル期というのは単に日本国中が浮かれていたというだけではなく、いろいろな分野で社会構造が変わり始めた時期でもあり、この小説のひとつのテーマでもある「女性」という点においても、男女雇用機会均等法成立が1986年、世界女性会議北京大会が1985年という、ある種の節目でもあった時期でもあります。

それまで、社会的には「男性」との関係でしか語られなかった「女性」が、男女関係なく一個人として語られるべきとの価値観の変化が始まった時期でもあり、残念ながら、その後日本では一気に逆行してしまいましたが、まあとにかくそういう時代背景の中で、この小説の「和歌」は生きているわけです。

おそらく『私のなかの彼女』とのタイトルも、「和歌」の中にある、そうした時代背景の中で求められる過去からずっとある「女性」の価値観でもあり、また「仙太郎」という「男性」から見た、いわゆる「彼女」という意味でもあると思います。

常に先を行っている(ように見える)仙太郎の後を追いつつ、いつの間にか仙太郎を追い抜いているのに、和歌自身にもそれを自覚することはできず、いつまでも仙太郎の影に怯えている和歌であり、仙太郎はと言えば、ある時、おそらく追い越されたその関係の逆転を気づき、本能的な防御機能によって、自らを和歌から遠ざけ、再び和歌の前に現れる時、すっかり居直り、過去には自らが見下していた、そして和歌が捨て去った世界に身をおくことで、あたかも和歌の優位に立ったかのように見せ、さらに和歌を苦しめようとする、そういう物語です。

ただ、全体的に細かなエピソードなどの突っ込みが甘く、たとえば初めて香港を訪ねたくだりであるとか、ラストのエジプトでの描写などもかなり薄っぺらく感じる小説ではありました。

月と雷 (中公文庫)

月と雷 (中公文庫)