角田光代著『月と雷』 聖と俗みたいなもんですかね…

月と雷 (中公文庫)

月と雷 (中公文庫)

 

映画を見て面白い話だなあと思い原作を読みました。

映画の感想はこちら。

movieimpressions.com

映画はおおむね原作通りに作られていますね。ただ、書き出しが智(さとる)を主人公にした記述で始まりますので、一瞬、ん?と戸惑いました。それだけ映画は初音映莉子さんの泰子の印象が強かったのでしょう。

で、智を主人公にして書き出された原作は、次の章(付はされていないが)は泰子を主人公といった具合に、ほぼ交互に書き進められていきます。

細かいところではいくつか映画と違うところがありますが、いちばん大きく異なっている点は、泰子の家を出た後の直子についてかなりの描写があることです。

突然、直子が主人公となる章が出て正直面食らいますし、その後も、泰子が、直子とは一体何者なのかとこだわる描写が続きます。

おそらくそれが著者が書きたかったことなんでしょう。

つまり、直子の生き様、いわゆる「(普通の)生活」というものを持たず、また持とうとせず、そうであっても(多分)不安というものを知らず、根無し草のように転々と他人の「生活空間」を侵食して生きていく、その生き方がなぜできるのか、そしてそれは一体いつ始まったのかを書きたかったのでしょう。

でも、この試みは失敗ですよね。

だって、この小説において意味があるのは、泰子が、直子の不可解ではあってもなぜか引きづられてしまう自分自身の何かに気づき、(社会的に)普通であることとそうでないこととの間で揺れ動くことに、それなりに多くの人が共感できるであろうということであって、その何か、つまり直子の存在意義を解き明かすことではないでしょう。

と、いくら一読者が力説しても(笑)小説は作者のものなんですから、と分かってはいますが、正直、最後まで直子の章など入れず、泰子の自問自答で終えるべきだったと思います。その意味では映画のほうが正解でしょう。最後の笑みを除いてですが。

俗と聖の間で揺れ動く人間を描くことが文学や映画の役割であり、聖を描けるのは聖書だけです。

ん? 違うか? 直子は「俗」か…、いやいや、聖人でしょう。

ところで、『月と雷』の「月」と「雷」って何?

「月」がいわゆる「普通の生活」で、「雷」が直子のような突然やってくる「普通じゃない」ものということなんですかね?

月と雷

月と雷