平野啓一郎著『マチネの終わりに』 平成のすれ違いメロドラマ、 真ん中あたりで投げ捨てなければ(笑)読み応え充分

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

久しぶりに平野啓一郎さんを読みました。

映画化が決まっているようです。

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確かに映画向きの話です。

恋愛、それもアラフォーの純愛ものですから、福山雅治さんというキャスティングは興行的にはうまいですね。それにギターも弾けるしということがあるのかもしれません。

ただ、男は世界的に活躍する天才ギタリスト、女はカンヌでパルムドールを受賞した(違ったかも?)ことがあるクロアチア人映画監督の娘で、今はフランスの通信社のイラク特派員という設定がちょっとばかりこそばゆくはなります(笑)。

さらに心配なのは、平野さん特有の言葉遣いや知的好奇心をくすぐる哲学絡みの文章は文字言葉ではあまり気になりませんが、あれを実際に生身の人間が喋ったりしたらこれまた陳腐ですし、かといってそうしたものを落としてしまったら単なるメロドラマになってしまいますし、どうなるんでしょう。

実際、基本の物語は、(気持ちのすれ違いも含めた)すれ違いのメロドラマです。

でも、面白いです(笑)。

もともとは毎日新聞の連載小説として発表されたものらしく、それを知って思い返してみれば、確かに、大きな軸は男と女が最後に出会うことができるかというシンプルな物語ですし、知的な興味がもたれそうな要素が散りばめられ、社会的な事象も盛り込まれていますので、興味を途切らせず、かと言ってひとつのことに長くこだわることがないように書かれてます。

天才ギタリストと呼ばれてきた蒔野聡史は、今、20周年記念コンサートを終えたところです。その出来は誰もケチがつけられないようなものなのに、蒔野自身は何かしっくりこないものを感じています。

この点ついての記述に、終演後40分も楽屋から出てこないことやその楽屋に飲み干したエビアンのボトルが転がっていたなど、冒頭からかなり意味ありげでしたので、きっとこれがキーになるんだろうなあと気になって読み進んでいたのですが、あまり深く突っ込まれることもなく、いわゆるスランプなのか、物語の軸である恋愛が原因なのか、よくわからなくなっています。

で、蒔野はそのコンサートで小峰洋子という女性と運命的な出会いをします。洋子は…、とその後、表記がすべて「洋子」となり、なぜ男は苗字で、女は名前なんだろう?と、こんなところにこだわってもとは思いますが、ちょっと気になりつつ、上にも書きました洋子の出自が明かされ、実は洋子は、蒔野がデビュー前のコンクールで優勝した時、つまり20年前のパリでのコンサートで、洋子の父親の映画「幸福の硬貨」のテーマ曲を蒔野が演奏したのを聴いていると明かします。

そりゃ、恋にも落ちますわね、と言いますか、逆ですね、恋に落ちるように書いているわけですが、その後の打ち上げでの会話が全編通したひとつのテーマにもなっています。

それは、「過去は変えられる」ということで、この場面では、洋子が話の流れから、自分の祖母は長崎の家(ああ、母親は日本人です)で転んで庭石に頭をぶつけ、それが原因で亡くなった、そして、その庭石は洋子が子供の頃によく遊んでいたものだと語ったことから、蒔野が、その石は、祖母が亡くなる前は単に子供の頃に遊んだ石であったのに、亡くなった後は違うものになった、つまり人間にとって、過去は決定されたものではあっても、その後経験していく様々なことにより変質していくものだと語り、それが洋子の中に強い印象でもって残り、折りに触れ思い出すことになります。

この最初の出会いに、今後の話をふくらませるための伏線が張られています。洋子にはリチャードというアメリカ人の婚約者がいること、そして、蒔野のマネージャー三谷早苗の存在です。三谷は、上の「過去は変えられる」石の話に妙にこだわり、洋子への対抗意識をみせています。

洋子は翌日にはイラクへ発っていき、その後の蒔野とのやり取りはメールだけです。

ある時、洋子は通信社が入っているイラクのホテルで自爆テロに遭遇します。自分がつい1分ほど前までインタビューをしていたそのロビーに、襲撃犯たちがエントランスから入って来るその姿を、エレベーターの中から目撃したのです。

洋子は、その後、この記憶に悩まされ続けることになります。PTSDです。

半年(くらい)後、二人は、蒔野が演奏のためにパリとマドリードを訪れる際に会う約束をします。

それまでのやり取りは数回のメールだけですが、こうした場合、普通でも会えないがゆえに思いは募りますし、さらに蒔野が送った安否を気遣うメールへの返信がなかなか来なかったこともあり、ますます蒔野の思いは強くなっています。

一方の洋子は、蒔野を愛し始めているかもしれないと思いつつも、婚約者の結婚への強い思いもあり、また精神的にも不安定な状態ですので気持ちは揺れ動いています。

そして、パリでの再会のレストラン、イラクでの話になった時、蒔野が唐突に言います。

「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」

《ヴェニスに死す》症候群。「中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること」洋子の父の造語だと語られています。

「過去は変えられる」とともに、この小説のもうひとつのテーマです。

ただ、ここツッコミ入れるところじゃないことはわかりますが、普通、こんなこと言われたら引きません? まあ小説だからいいか(笑)。え!? このセリフ、福山が言う…?

とにかく、洋子が嬉しさと戸惑いの気持ちを込めて、私はもうすぐ結婚するのよと言いますと、蒔野は、だから止めに来たんだと求婚します。洋子は、時間がほしいと、蒔野がマドリードから戻る一週間後(くらい?)まで待ってと答えます。

ここでひとつ目のちょっとしたすれ違いが起きます。

蒔野は、マドリードから戻りパリで行う演奏会に洋子を招待していたのですが、洋子は来ません。蒔野は気が気ではありません。その所為ともいえませんが演奏も散々です。演奏を終えて携帯をみますと、謝罪と今晩自宅に来てとメッセージが入っています。蒔野は、あるいは自宅には婚約者とともにいて、はっきりと断られるのではないかと悲観的になります。

人はこういう時、悪い方へ悪い方へと考えてしまいます。

緊張して洋子のもとを訪ねますと、確かにもうひとりいたのですが、違っていました。イラクの通信社で洋子を慕っていたジャリーラが不法入国で拘束され、洋子が身元引受人となった(ちょっと違うけど省略)ということです。その突然の混乱のために演奏会にはいけなかったのです。

こういう展開が連載小説っぽくてうまいですよね。ここで二人にしちゃったら純愛物語になりませんし、さらに先へ進めたらどろどろになっちゃいますわね(笑)。

とにかく、三人で食事も済ませ、会話も進み、蒔野が持ってきたギターでジャリーラの好きなブリトニー・スピアーズを弾いたりして、蒔野自身もあらためて音楽の楽しさを感じたりし、さらに、洋子の父の映画「幸福の硬貨」の話になり、そのタイトルのもととなっているリルケの詩を洋子が朗読し、続いて牧野がテーマ曲を弾くという、二人にとっても、そしてジャリーラにとっても素晴らしい夜となるのです。

こういうところがありますので、たとえメロドラマであっても文学的になります。

ジャリーラがベッドルームで眠ったあと、洋子は、婚約者に別れを告げ、蒔野と一緒に生きていくと伝えたと言います。

蒔野の気持ちの昂ぶりはいかほどかと思いますが、この場でもジャリーラという存在を置いて、二人の関係を熱い抱擁までにとどめさせています。

そして、数カ月後の東京での再会を約束します。

再びパリと東京です。その間、スカイプで互いの気持ちを確かめあう日々ですが、洋子にはジャリーラとの再会が影響したのか、婚約破棄という罪悪感からなのか、PTSDの症状が悪化します。洋子はそのことを蒔野に言えません。

一方の蒔野も、実際の演奏においてもかなりの不調に陥っています。こちらもそのことを洋子には言えません。

こういうところが大人のドラマということでしょう。そして、それが伏線にもなっているのですが、洋子が一週間の休暇をとって東京へ来た再会の日、とんでもないことが起きます。

私は、この後の展開を読んで気分が悪くなり、もう読むのやめようかと、1日か2日、そのまま読まずに放っておいたくらいです(笑)。

自分の覚えのために書いているとは言え、かなり長くなっていますので簡単に書きますと、洋子は蒔野の自宅へ泊まることになっており、蒔野は空港へ迎えに行くことにしています。ところが、蒔野が出かける直前に恩師が脳出血で倒れて危篤との電話が入ります。蒔野はタクシーで病院へ駆けつけますが、タクシーに携帯を忘れてしまいます。洋子に連絡しようにも方法がありません。蒔野は、マネージャーの三谷に助けを求め、タクシー会社に携帯を取りに行くよう頼みます。

三谷は蒔野のことが好きです。という言葉が妥当ではないくらいに、この場面では思い詰めています。でなければ、この後のことは説明しきれません。もちろん、蒔野と洋子のことは知っています。 

三谷は携帯を受け取り病院へ向かう途中、新宿で洋子が困った表情で立ちすくんでいる姿を目撃します。その時、蒔野の携帯に洋子からのメールが入ります。もちろんかなりの葛藤は記述されていますが、とにかく、開けてしまいます。そして、なんと! それに対して「あたなには、何も悪いところはないんです。……(略)」と別れのメールを送ってしまうのです!

こんなこと、人間しませんよ。自分を失うくらい酔っ払っているか、××っているか、シラフではいくら恋は盲目っていっても、こんなことしませんよ(笑)。って、甘いか(涙)。

とにかく続けますと、さらにとんでもないことが起きます。何と、わざとではない(と書かれてはいるが…)のですが、その携帯を水たまり(大雨の日なんです)に落としてしまうのです。水没です。

三谷早苗、根性がすわっています。そのまま病院へ向かい、水没したことを告げます。蒔野は、あれこれ考えた末、三谷の携帯を借り洋子にメールすることを思いつきます。蒔野は三谷の携帯に謝罪やら事情説明を打ち、なんと! そのまま送信すればいいものを、なにーーーー! 三谷に送信してと携帯を渡すのです!

さすがにこれはありえません(笑)。

もちろん、三谷は送信せず削除してしまいます。

洋子は突然の別れのメールに憔悴しきって、兎にも角にもとったホテルをとりベッドに倒れ込みます。

蒔野は一旦帰宅し、PCからでしょう、メールを送ります。しかし、蒔野からのメールは、洋子が三谷の携帯からの事情説明を読んでいる前提のものですからすれ違いがすれ違いを生み、ますます悪い方へいってしまいます。洋子はある段階から携帯の電源を切ってしまいます。

この後、二人は一切言葉はもちろんのこと、メールも交わすことがなくなります。

この流れ、結構ツッコミどころは多いのですが、そもそもがそもそも(三谷のこと)ですからツッコミも面倒くさくなります(笑)。

ということで、あまりのつくり過ぎのすれ違いメロドラマと、どんなに考えてもあり得ない三谷の一連の行為に、何だ、これ!?と本を投げ捨てた(比喩)わけです(笑)。

ただ、二人がともに精神的に不安定であるなどの伏線が張られていますので、まあ、こういうこともありかなあ、それに小説だしなあと(身も蓋もないことで)思い直し、1日か2日後、再び手にとったその続きを、今度こそは簡潔に書こうと思います。

洋子は、蒔野と一緒に行く予定であった長崎へひとりで帰り、母親といろいろ話したりし、未練は残しつつ、パリへ戻ります。いろいろわけあって、パリでは婚約者が空港で待っています。憔悴しきっている洋子はそのまま婚約者の胸に倒れ込み、そのまま結婚へと走ってしまいます。

一方の蒔野も、なぜ洋子が去ってしまったのかわからないまま、洋子の気持ちを確認するすべも失い、悪い方へ悪い方へと思い悩み、また音楽的にも行き詰まっていたのでしょう、その後の、三谷の甲斐甲斐しくもある自分と恩師の介護までものつくし方に接して、それを愛であると思い込んだのか、弱気になったのか、結局三谷と結婚してしまいます。ここでまたなぜ?とは思いますが、三谷は晴れて(?)早苗と表記されるようになります(こだわりすぎ)。

三年後(くらい?)、あれ以来、演奏活動から離れていた蒔野は、友人のギタリストとデュオというスタイルでコンサート活動を始めます。

一方、洋子にはケンという子供が生まれています。しかし、夫婦関係は破綻しており、夫からの離婚の申し出もあり、洋子は親権五分五分で受け入れます。

離婚後、ケンをつれて一時帰国した際、蒔野のデュオコンサートがあることを知り、思い切って聴きに行こうと劇場で当日券を買おうとします。その時、後ろから「洋子さん? 蒔野です」と声をかけられます。早苗です。洋子が目にした早苗のお腹は大きくふくらみ、蒔野の子どもが宿っていることを知ります。

早苗は洋子に、蒔野のコンサートに来ないでほしいと言います。蒔野は長い間演奏から遠ざかっており、やっと再起のスタートを切った今、洋子の姿を見たら、蒔野は再びダメになると強く言い、そして最後に、「洋子さんには、何も悪いところはないんです。……(略)」と続けます。

洋子は、その言葉から、あの日、蒔野から別れを告げられたメールを思い出し、あのメールは早苗が送ったものだと気づきます。

しかし、洋子は大人です。「それで、あなたは今幸せなの?」と言い残して去っていきます。

きびしー! 

ただ、ホテルに戻った洋子は泣き崩れます。

蒔野は何も知らず、デュオコンサートも好評のうちに終了し、ラストコンサート終了後に、相手のギタリストから、楽しかった、これで実家に戻り仏壇職人の道に進む決心がついたと告白されます。

そして、後日、その友人が亡くなったとの知らせを受けます。蒔野は直感的に友人の死は自殺だと理解します。

ある日突然、早苗があの日のことを告白します。友人の死のこともあったのでしょう、お腹の子供のことで神経質にもなっていたのでしょう、そして何より長い間の罪悪感から開放されたかったのでしょう。

蒔野は「どうして隠して通してくれなかった…?」と苦渋に満ちた声で答えます。

過去が変わってしまった蒔野に、過去を変えたいと思った早苗ということになるのでしょうか。兎にも角にも時は流れ、蒔野と早苗夫婦に女の子が生まれます。

洋子は離婚を機に(仕事はしていたのですが)再びNGOの職を得てジュネーブ勤務となります。

蒔野はCDの新譜を出すまでに復活し、ニューヨークでの初リサイタルが企画されます。コンサートのその日、洋子はそっと最後列の席に座ります。

このラスト一連のシーンは読み応えがあります。

二度目のアンコールに応え、蒔野が「ここの会場は初めてなんですが、音もとても素晴らしくて、演奏していて、本当に良い気分でした。近くにセントラルパークもあるし、…今日は良いお天気ですから、あとであの池の辺りでも散歩しようと思います。」と語ります。

その日のコンサートは昼公演、マチネです。

「それでは、今日のこのマチネの終わりに、皆さんのためにもう一曲、特別な曲を演奏します。」と、英語ですから、最後の「…for you」に洋子への思いを込めて語り、「幸福の硬貨」を演奏するのです。洋子に気づいていたんですね。

洋子の目には涙が溢れます。

そして、終了後、蒔野が公園の池の辺りに向かいますと、ベンチに座り池の水面を眺めている女性がひとり、ゆっくりと蒔野に顔を向けるのです。

二人が初めて出会ってから五年半の歳月が流れています。

うまい! むちゃくちゃベタですが、余韻を残した感動で、涙は出ませんでしたが、何やらざわざわしたものを感じました。

危うく途中で投げ出してしまうところでしたが、これはとてもいい「平成のすれ違いメロドラマ」でした。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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