松浦寿輝著『花腐し』

かれこれひと月前になりますが荒井晴彦監督の「花腐し」を見て、あまりの映画のひどさに、さすがに原作はこんなんじゃないだろうと思い読んでみました。

松浦寿輝さん…

まず小説の話から。

松浦寿輝さんという名前は現在の芥川賞の選考委員として知ってはいますが作品を読むのは初めてです。

現在71歳、この『花腐し』が芥川賞を受賞したのは2000年ですので46歳のときということになります。芥川賞の対象は概ねデビューから10年くらいと言われ、その意味では新人賞とも言えますので46歳で受賞というのはかなり遅いデビューということです。

肩書はウィキペディアによれば「詩人・小説家・フランス文学者・批評家」となっており、基本は東大系の文学者ということのようです。小説は1996年の『もののたはむれ』がデビュー作で、短編の連作集と紹介されています。

で、この『花腐し』です。

中年男の愚痴? 堕ちていく美学?…

ひとことで言えば、人生に行き詰まった中年男の愚痴の垂れ流しです。

一概に批判的という意味で言っているわけではありませんが、主人公挧谷は、30歳のときに一念発起して立ち上げたデザイン会社が親友と思っていた共同経営者に騙されて膨大な負債を抱えることになり、債権者のひとつである消費者金融に頭を下げに行ったところ、逆に追い出し屋を頼まれる羽目になり、そして追い出しに向かったボロアパートの住人伊関と一晩飲み明かしてしまうという話です。さらにその間に主人公が過去に2年ほど一緒に暮らしていた女があるいは自殺と思われる死に方をしたことを回想し、実はその原因が女と逃げた共同経営者の一度きりの浮気をめぐる自分の態度だったのではないかと思い巡らすわけです。その主人公の心の内の堂々巡りが私小説のごとく延々と書き綴られている小説です。

ですから、それを恨みつらみの愚痴と感じるか、あるいはそこに退廃の美学のようなものを感じるか、そのどちらかだということです。

ボロアパートは新大久保あたり、始終雨が降っています。ボロアパートの住人は伊関と名乗り、まさしく挧谷が自分の未来かと思うような男で、自分は社会から転げ落ちた幽霊のような人間だとうそぶき、部屋でマジック・マッシュルームを育てて稼いでいます。

そうした未来の自分である伊関を目の当たりにして、行きつ戻りつの自慰的な自省を繰り返す挧谷のひとり語りの話です。

タイトルの『花腐し』は万葉集の

春されば 卯の花腐し 我が越えし 妹が垣間は 荒れにけるかも

(現代語訳)
春になると卯の花を腐らせて春雨が降り、昔私の越えた妻の家の垣の間は、今荒れてしまったなあ
万葉百科 奈良県立万葉文化館

から取られています。

こんなに変えちゃっていいの?…

映画「花腐し」です。

映画は挧谷をピンク映画の監督に変え、また、挧谷が一緒に暮らしていた祥子を俳優を目指している人物として、以前伊関とも一緒に暮らしていたとの設定に変えています。

つまり、ピンク映画斜陽の時代に入り、仕事がなく悶々としている映画製作者たちというベースの上で話を進めています。

祥子(さとうほなみ)が挧谷(綾野剛)も知るピンク映画の監督桑山と心中したところから始まります。そもそもこれからして、こんなに変えちゃっていいの? とは思いますが、こうした原作ありの映画化ってどういう契約になっているんでしょう。この映画で言えば原作者である松浦寿輝さんはこれでいいんでしょうか、ということです。

さらにその祥子は実は挧谷と暮らし始める前は、シナリオライターの(目指していた?…)伊関(柄本佑)と暮らしていたという設定になっており、会話としてはあまりないにしても映像的にはひとりの女、祥子について二人の男がそれぞれの思いを語るという話になっています。

こんな身勝手な改変を原作者は許しているんでしょうか。

いち視聴者、あるいは読者がどうこう言っても始まらないことですが、映画は原作とはまるで違うものになっていますので、であればオリジナルで考えるか、設定だけいただきましたとかをクレジットしてタイトルも使わなければいいと思います。

映画のエンディングになっている 3P やレイプシーンなどの AV 展開は、確かに原作にも挧谷とマジック・マッシュルームであっちの世界へいっていた女アスカとのセックスシーンとしてあるにはありますが、その描写が冗長であるのはちょっと耐え難いとは思いますが、それはそれとして、さすがに映画で描かれている AV シーンとは意味合いがまったく違います。

いずれにしても原作の肝である、挧谷の自省、悔恨、堕ちていくことへの誘惑、雨に濡れて「花腐し」と酔いしれる自暴自棄感というものは映画にはまったくありません。

サイバーパンクで映画化はどう?…

いずれにしても映画「花腐し」は原作『花腐し』になにがしかの思いをもって映画化されたのではなく、原作の昭和の匂いを嗅ぎ取ってピンク映画再興(あり得ないからレクイエム…)に利用したということだと思います。原作に何らかの魅力を感じているのならこんな映画化はしないでしょう。

私小説を映画化するのはかなり難しいのですが、ただ、この原作なら出来そうです。

しとしとと降り続く新宿裏通りの猥雑さは未来的な映像に転化しやすいですし、伊関がマジック・マッシュルームを育てるその部屋を挧谷が妄想する未来的異次元空間への入口として、その2つの空間で挧谷の過去と現在を描けばいいんじゃないかと思います。

酔いつぶれて知らぬ間に挧谷の上にアスカが乗っているという最後のセックスシーンにしても挧谷の妄想の中の祥子とのセックスにすればいいと思いますけどね。

余計なことでした(笑)。