河林満著『渇水』感想・レビュー・書評・ネタバレ

映画「渇水」を見て Amazon でポチっとしたその原作小説です。

原作は映画向きじゃない

びっくりするくらい短い小説です。原稿用紙100枚くらいじゃないでしょうか。他に「海辺のひかり」と「千年の通夜」の二編が収録されています。

映画はその短さにいろんなものを創作して膨らませてあります。いや、膨らませているわけではなく、原作にないエピソードを加えて違うものにしていると言ったほうが正しいかも知れません。日本の脚本家は原作の設定だけを取って自分の作品のように作り変えてしまう人が多いですね。

たとえばこれです。

もちろん、映画「渇水」の脚本は及川章太郎さんという違う方です。

映画のレビューにも書きましたが、映画にしてもこの原作にしても結末をどう考えるかがこの作品の重要ポイントであることは間違いないです。私は映画のラストシーンからふたりの少女の自殺を婉曲的に描いているんだろうと考えましたので、映画全体のトーンとしては妥当なところかなと書きましたが、ただ、原作を読んだ今では、この結末を明確に描かなければこの小説を映画化する意味はないんじゃないかと思います。

逆にいいますと、この小説、映画に向いていません。

未完成作品のように感じる

その一番の理由は原作自体が書ききれていない感じがするからです。

岩切(映画では生田斗真)は市の水道局職員で料金未納世帯の給水を停止する係の一員です。岩切のある夏の数日が四章に分かれて書かれています。

小出秀作のふたりの娘

岩切は木田(映画では磯村勇斗)とともに小出秀作の家に停水目的で向かいます。小出には3年分の滞納があります。停水作業中に娘ふたりが帰ってきます。岩切は運悪くと考えます。職務とはいえ、自分の行為が子どもたちの生活におよぶことを直接的に感じさせられるからでしょう。岩切は子どもたちに家中のバケツや洗面器など水を貯められるものに水を汲み置きさせます。

その後、子どもたちにアイスキャンディーを与えて一緒に食べたりしますが、ふたりの娘が登場するのはこのシーンだけです。ふたりの娘は小学5年と3年で、上の娘は「いくら、たまってるんですか」と言い、電卓を持ってきたりと気丈なところがある子どもです。

この章はこのシーンだけですが、間に回想が入ります。岩切は一度だけ小出秀作と会ったことがあり、その時、小出に誘われるがまま家の中に上がっています。一般的にはこのケースで個人宅に上がることはないと思いますので、上がるからには岩切にそれなりの何かがなければいけない、と言うよりも小説としては岩切が小出の誘いに乗ってしまった、その心情を書かなければいけないと思うのですがそれがありません。

なぜわざわざ小出の誘いに乗って家にまで上がったのかはわからないままです。小出は、自分は元船乗りで病気のせいで乗れなくなったと語ります。岩切はただ聞いているだけです。岩切が何を思いどう考えたのかを書かなければ小出の愚痴話にしか見えなくなります。そんなことは小説的には重要なことではないでしょう。

岩切が小出の話に反応するところがひとつだけあります。小出の故郷が福島であることから、岩切自身が自分の過去について思い巡らします。二行ほどです。これだけのためにある回想にも見えてしまいます。

福島の海ときくと、岩切はなつかしくなった。そこには母方の祖母が生きていた。産みの母親はもう三十年もまえに、岩切がずっと小さいときに死んでいて、その墓もあった。

詳しくは調べていませんが、これは河林満さん本人のことじゃないかと思います。こうしたことももっと書き込めばいいのにと思います。率直なところ、物足りない小説だなあと思いますが、まあ持ち味ですので余計なことではあります。

岩切本人の事情と停水

2つ目の章では、小出以外の停水の現場描写と、その間に岩切個人の事情が語られます。

停水のシーンはふたつあります。どちらも悪質系のものですが小説全体の中で意味のあるものではありません。そのひとつは映画にも使われていました。若い男が出てきてゴネますが、部屋の奥から若い女性が出てきて私が払うと言って現金を出すシーンです。もうひとつはとにかく喚き散らす女性です。

岩切本人の事情がところどころに挿入されています。岩切の妻は、ある日ちょっと実家に行ってくるといったまま2週間も帰ってこない状態です。その理由ははっきりとは語られませんが、結局のところディスコミュニケーションでしょう。今の言葉でいえば、妻は岩切とつながろうとしているのに岩切がそれに応じない、または応じ方がわからないということだと思います。このあたりは映画も同じように描いていました。

妻は家を持ちたがったが、岩切は一人暮らしの時の安アパート感覚でいいと考えているというようなことであるとか、結局子どもは生まれてきたが、岩切は欲しくなかったと語っています。それなのに、ある時岩切は妻に電話をし、いつ帰ってくると尋ね、「さみしいからね…」と言うわけです。当然妻は「そういうことはもう言わないで…」と言います。

こういう岩切の内面的なことが書ききれていません。この点では映画も同じで、それについて、映画のレビューでは生田斗真さんには飢餓感がなく岩切に合わないと書いています。本来なら、映画化にあたっては、エピソードを加えたりすのではなく、こうした原作には書ききれていない岩切の心情を表現するシーンを加えるべきなんだろうと思います。

木田と滝へ行く

3つ目の章は、岩切と木田が滝を見にいくシーンです。滝であるのは水との関連からだろうとは思いますが、やはりこのパートも前後にもっとなにか必要だと思います。

おそらく意図としては、木田に「岩切さん、あそこ止めたの気になっているんでしょう」と言わせたかったんでしょう。あそこというのはもちろん小出のふたりの子どもたちのことです。

純粋に一人称小説ではありませんので、子どもたちふたりのシーンを書き込めばよかったように思います。これまた余計なことです。

少女たちの自殺

そして最後の章、週明けのニュアンスだったと思います。岩切が出勤しますと職場に警察が来ています。小出のふたりの娘が列車に飛び込み自殺したというのです。

これで終わりです。

唐突と言いますか、小説全体が断片的で、やはり書き足りない小説です。それにそもそもこのケースで、このタイミングで、警察が市の水道局を訪ねてくるというのはかなり不自然です。給水を止めたから自殺したと岩切に思わせたかったんでしょうが、それならそれで最後まできちんと書ききらなければいけないと思います。

なにを映画にしたかったんだろう

原作にはふたりの少女の母親(映画では門脇麦)は登場しません。描写としては、子どもの学習ノートの切れ端に「かならずはらいます」といった拙い書き置きが置かれているという程度です。

なぜ原作にはない母親を登場させ、さらには出会い系サイトを使って実質的な売春行為をしている女性にしたのか、脚本家にきいてみたいものです。率直に言って安易さを感じます。

ふたりの少女の自殺については、映画では児相に保護された後、ふたりで抜け出して笑顔でプールに飛び込むシーンで終えていました。

映画化の発案がどこから生まれたのかはわかりませんが、この原作の何を映画にしたかったのでしょう。その曖昧さが「つくりはていねいなんですが、最後まで問題がはっきりせず、見ているうちに何となく終わってしまったという印象の映画(渇水)」になったんだろうと思います。