今村夏子著『むらさきのスカートの女』

今年2019年上半期の芥川賞受賞作です。

【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女

【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女

 

津村記久子さんの『ポトスライムの舟』を読んだ際に、「芥川賞のすべて・のようなもの」というサイトを知りましたので、この『むらさきのスカートの女』でも見てみました。

びっくりしました。その評価が私の感想とまったく違うのです(笑)。選評を読みますと、無茶苦茶評価が高いのです。それも、過去の落選作でも多くの選者が何某かのコメントを書いているのです。もちろんすべてがいい評価ではありませんが、こういうものは悪い評価でも評価があることに意味がありますので、注目されているということです。

私はこの小説を読んでも何も感じるところがなかったですね。

ある女性の一人称で語られていきます。

うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。

で始まり、この語り手が、そのむらさきのスカートの女をまるでストーカーのように執拗に追い続ける話です。

その追い方は尋常ではなく、住まいがどこかはもちろんのこと、その住まいの階段の手すりのサビから、その階段をどうやって登っていくことも、いつどこで働き、いつ働いていないかも、とにかく描写は微に入り細に入り、つまり神の視点でそのむらさきのスカートの女の描写が続くのです。

であれば、当然この語り手、自身を「黄色いカーディガンの女」と語っているこの女は存在していない、あるいは語り手自身が「むらさきのスカートの女」(以下、むらさき女)であると考えるのが普通で、それは読み始めて10ページ、あるいは20ページもすれば誰にでも浮かぶことだと思います。

実際、この語り手は、むらさき女が働いていない時に毎日訪れる公園で来るのを待っていたり、自分が働いている職場に就職させようと求人誌をむらさき女が見るように置いておいたりします。どう考えてもこの語り手に実在感はありません。そうであれば、この語り手がいったい誰なのか、それがいつ明かされるか、それを期待して読み進むことになります。

ところが、いっこうにそうはなりません。最後の最後まで語り手はむらさき女を追い続けます。

策略どおり、むらさき女は語り手自身が働くホテルのハウスキーピングの会社に就職します。ストーカー(的)行為は続きます。同じバスに乗り、隣り合わせになっても、職場のミーティングに同席しても、休憩時間に顔をあわせても、語り手はむらさき女に気づかれることなくストーカーし続けます。

最初は化粧っ気もなく小声でしか話せない、やや鈍くさく見られていたむらさき女ですが、日に日に変化していき、職場の先輩からも慕われるようになります。

心配していた所長も自分の教育の結果が出たと喜び、それもあってか、次第に親しくなっていったらしく、(語り手には)ふたりが個人的な関係あるようにみえてきます。実際にそのように記述されていきます。

同時に、むらさき女の勤務態度が悪くなっていき、それまで好意的であった先輩たちも離れていき、今度は悪く言うようになります。

そして事件がおきます。むらさき女のアパートの近くで開かれたバザーにホテルの備品が出品されていることが発覚します。職場ではむらさき女の仕業に違いないと皆が本人に迫りますが、答えることなく帰ってしまいます。

所長がむらさき女を訪ねます。盗品騒ぎの件を問いただす所長に対し、むらさき女は所長が家族旅行にいったことを責め、言い争い、そして取っ組み合いとなり、所長は二階から転落します。

ここからがまったく意味不明な展開なんですが、突然、語り手がむらさき女の前に現れます。その現れ方は天上にいたものが地上に降臨するような感じなんです。

階段を駆け下り、「ともくん…、ともくん…」と途方に暮れるむらさき女を語っていたと思いましたら、突然、

「しー。静かに」

と、わたしは言った。

とむらさき女と同じ舞台(次元)に登場するのです。とともに、初めて「わたし」がむらさき女と同じ職場の権藤チーフであると明かされます。

小川洋子氏

奇妙にピントの外れた人間を、本人を語り手にして描くのは困難だが、目の前にむらさきのスカートの女を存在させることで、“わたし”の陰影は一気に奥行きを増した。

 宮本輝氏

語り部である女が、この小説では最も異常性が顕著だが、読み手はむらさきのスカートの女を変わり者として感じてしまう。このふたりがじつは同一人物ではないかと疑いだすと、正常と異常の垣根の曖昧さは、そのまま人間の迷宮へとつながっていく。

この語り手である「わたし」はそんなに奥行きのある、人間の迷宮を感じさせる人物なんでしょうかね。

で、「わたし」である権藤チーフが何をするかといいますと、むらさき女に、事前に準備してあった逃走の手筈を説明し、バスに乗せて逃すのです。そして自分はと言えば、いろいろトラブルはあるにせよ、むらさき女の後を追うのです。

何ゆえなどということは一切説明されませんし、そこに何かを想像できるような何かも一切提示されません。ただ、そうであると語っているだけです。

そして、手筈通りにむらさき女の後を追うも、むらさき女は手筈通りに行動しなかったからなのか、そもそもむらさき女は存在しなかったかも明らかにされず、むらさき女は忽然と姿を消すのです。

そして後日、「わたし」たちは入院中の所長を訪れ、大変でしたね、むらさき女からストーカーされていたんですって、などと見舞いの言葉をかけ、さらに、「わたし」はひとりになった時を見計らい、所長に「時給を上げてください」「だめならお金を貸してください」と願い出て、「だめだってば」と拒絶されれば、「五十嵐レイナ(アイドル)のパンツ盗んだこと誰にも言いませんから」と脅すのです。

さらに後日、むらさき女が仕事のない時に指定席にしていた公園のベンチに座り、むらさき女と同じようにクリームパンを食べ、むらさき女がされていたように、遊ぶ子どもたちの格好のターゲットとなって終わります。

文体や語り口についても「新進作家らしからぬトリッキーな小説(高樹のぶ子氏)」とか、「小説が端正である(奥泉光氏)」とか、「少しも大仰でない独得の言葉…おかしみの点在する世界に読み手を引き摺り込む手管は見事だと舌を巻いた(山田詠美氏)」とか、「商品としては実にウエルメイドで、平易な文章に、寓話的なストーリー運びの巧みさ、キャラクター設定の明快さ、批評のしやすさなど、ビギナーから批評家まで幅広い層に受け入れられるだろう(島田雅彦氏)」とか、「書く技術の高さには文句のつけようがない(吉田修一氏)」とか、「淡々とした語りの豪腕ぶりに、大きな魅力がある(堀江敏幸氏)」とか、私にはまったく理解できない言葉が並びます。

私自らに、これがわからないのなら「出直していらっしゃい」と声を掛けなくてはいけない小説でした。

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)