千葉雅也さん、この『オーバーヒート』も前作の『デッドライン』に引き続いての芥川賞候補です。残念ながら受賞は逃しています。
『デッドライン』の続編…
と言ってもいいほど、人物的にはつながっています。
『デッドライン』の主人公「僕」は東京の大学の修士課程で哲学を専攻する大学院生でした。その修士論文を書くまでの日々を軸にして、そこにゲイである「僕」の性愛恋愛事情、友人とともに関わる映画制作の話、女性の友人の失恋話、父親の会社の倒産による学費の心配などが綴られていました。
で、この『オーバーヒート』の「僕」は京都の大学の准教授になっています。京都は嫌だからと大阪にマンションを借りて暮らしています。「僕」には「晴人」というパートナーがいてその彼との付き合いを軸に、行きつけのバーでの人的交流、大学の女性同僚の話、カミングアウトした後の両親の振る舞い、そしてツイッターへの投稿とその反応などが、前作とほぼ同じような流れで綴られていきます。
ですので、前作ともども私小説ということかと思います。
そして、読み終えた後に残る感覚としては、なにかから「僕」すなわち著者が卒業したような印象の残る小説です。年齢的ななにかのような気がします。
「言語は存在のクソだ!」
作中の「僕」は、時々「言語は存在のクソだ」などと「言葉」に対して悪態をつきます。「僕」は著者と同じように、フランス哲学が専門でデリダやドゥルーズが研究対象ですので、そのあたりからの言葉かと思いますが、ただ、小説としては「僕」が「言語」にさほどこだわりをもっている感じは伝わってきません。かろうじて、時々ツイートする文章がいかにも哲学者といった感じがする程度です。
むしろ、「僕」がこだわっているように感じられるのは「身体」であり「肉体」です。それはゲイのセックスが生々しく語られたりするところに強く出ています。
「晴人」との関係はかなり希薄です。お互いに愛し合っているようには書かれていません。「僕」の思いは強いのですが、「僕」は「晴人」に対して確信が持てないでいます。
ある時「晴人」が浴衣の女性(お祭りだったか?)と歩いているところに出くわします。「僕」は幾度もラインをしますが返信はなく、後の電話に涙ながらに思いを伝え、「晴人」をごめんと謝るシーンがあります。
そして、「僕たちはいつまで一緒にいられるだろう」「男同士には結婚というオチがない」と書きます。
やはり私小説
ただし、そうした同性愛そのものがテーマというわけではなく、とにかくとりとめもなく「僕」の日常が語られていく小説で、その意味でもやはり私小説ということだと思います。
大阪の町は10年前の東京だと言ったり、それはつまり、40歳前後(だったと思う)になった自分が10年前の自分と出会いたいとの裏返しの言葉であるわけですし、業界(あえての表現)の中の自分に抵抗を感じ、唯一同僚の女性にはカミングアウトしていると語り、行きつけのバーでも常に自分のポジションを守ろうと身構えていますし、そこでも女性の従業員とのやり取りに居心地のよさを感じるわけです。
後半には、男の人が好きだと母親にカミングアウトした回想が語られます。さらりと聞き流してくれた母親が後に体調を崩して寝込んだことを父親から聞かされます。何が理由とも書かれていませんが、何らかの関係があるという意味なんでしょう。
そして、久しぶりに戻った故郷、両親との関係も良好です。高校の同級生とも会い、さほど深い意味合いではありませんが、つまりは過去と向き合います。
若さへの決別
読み終えた時の感想を「僕」がなにかから卒業する感じと書きましたが、「若さへの決別」ですね。
異性愛者が法的にも結婚し子どもをつくることで大げさに言えば生きた証のようなものを感じるとするならば、同性愛者にはそれはないでしょう。養子ということで子どもを持つこともできるのでしょうが、若干違うようにも思います。
あくまでも想像の領域ですが、そうしたことも含めてある種の諦観のようなものを「僕」そして著者は感じているのかもしれません。
芥川賞選者の選評がおもしろい
『デッドライン』が第162回2019年下半期、『オーバーヒート』が第165回2021年上半期の候補作になっています。
このサイトで選評を見ますとおもしろいですね。
山田詠美、川上弘美両氏はどちらの作品にも高評価です。山田詠美氏の言葉がおもしろいです。
昔から「哲学書を読む娼婦」は文学に愛されて来たが、「娼婦の振る舞いをする哲学者」は嫌われるらしいのだ。
千葉雅也さんがどの程度芥川賞を意識しているかはわかりませんが、二作続けて同じような内容というのは受賞には不利でしょう。余計なことですが。