昨年2024年上半期の芥川賞受賞作、朝比奈秋さんの『サンショウウオの四十九日』です。先に読んだ『植物少女』は視点が新鮮で面白かったのですが、さて…。
結合双生児…
これは難しい小説ですね。
『植物少女』は情景がイメージしやすくすらすらと読めましたが、この『サンショウウオの四十九日』は、主人公の杏と瞬が結合双生児であり、それを具体的に画としてイメージすることが難しく、今どちらの視点なんだと考えながら読むことに疲れてしまいます。
なかなか杏と瞬の人物像が画として固まりません。当然ながらふたりは別人格として存在しているわけですが、身体はひとりという状態です。
そもそも私はそんな話とも知らずに読み始めましたので、杏と瞬ふたりが会話したりしているのになんだかわかりにくい記述だなあなんて思いながら1/4くらいまで読み進んでいました(笑)。
で、ふたりがシャワーを浴びる場面で「鏡にはたった一体の人間が映っている」とあり、はあ? となり、ようやく杏と瞬は結合双生児なんだとわかったわけです。
ところが、それがわかったとしても情景のイメージしやすさが変わるわけではありません。これは小説ですので別人格のふたりがいれば当然その会話(と言っていのかどうかも難しい…)は言葉として記述されていきます。しかし、ふたりの身体はひとつですので杏と瞬の会話は音声として発生されているわけではありませんし、その思いが行動として現れるわけではありません。と言うよりも、ということかどうかもよくわかりません。
たとえば、小説の最終盤で瞬が風邪から扁桃腺炎を患い高熱を出して動けなくなるような状態なんですが、そのとき杏は健康体として記述され、瞬をおんぶするように二階に上がったとか、意識的には医師が診察するかのように手鏡で喉を見てみるとか、意識としても身体的には別人物として記述がされるのです。
そうした情景を画としてイメージするのがとても難しい小説です。
また私は、結合双生児についてはベトちゃんドクちゃんのことくらいしか知らず、この小説の中に出てくるアビーとブリタニーやクリスタとタチアナのことも知りませんでした。ですので今初めてその名を入れてググったのですが、たまたまニューズウィークの今年2025年1月5日の記事にアビーとブリタニーの現在が載っていました。
アビーとブリタニーは現在34歳、小学校の教師として働き結婚もしているそうです。やや下世話に捉えられてしまうかもしれませんが、その相手の男性(記事に写真がある…)との愛情関係はどうなるんだろうと考えてしまいます。
この小説にも瞬の記述として、
彼氏はいたことがない。しかし、大学生の時に一度だけキスをしたことはある。私が気になっていただけで杏はまったく好きではなかった。大学の飲み会の帰り、酔っぱらった勢いでしたキスは私には幸せな記憶になって、杏にはトラウマになった。しばらくして二つの記憶は混じって、今では思い出すとマーブル模様の気持ちになる。二人が同じ人を好きになったことは今まで一度もない。性行為も共有の膣を使うのだから、どちらかがレイプされることになるので永遠にできない。
(45p)
というのがあります。もちろん著者である朝比奈秋さん自身は結合双生児ではありませんし、また仮にそうであっても皆一様というわけではありませんのでこれはあくまでも朝比奈秋さんの一認識でしかありません。
この小説の中の杏と瞬は、キスや性行為だけではなく常に相手を他者として認識しています。ひとつの身体の中の他者、この小説は情景をイメージすることが難しいだけではなく、人の意識とは何なのかという未知の領域に挑んでいることになります。
ひとつの現実とふたつの瞑想、妄想…
とは言っても、そう簡単に人の認識は自らの身体性を超越できるわけではなく、この小説の大部分は、アビーとブリタニーやクリスタとタチアナといった現実に存在する結合双生児についてや、杏と瞬の出生時の話であるとか、学生時代はまわりに話していたが今の職場では話していないとか、小学校時代に文通したが理解されなかったといった一般的な客観認識の話に費やされます。
杏と瞬の結合は、現実にそんなことがあり得るとは思えませんが、身体的には手足も臓器もひとつであるけれども、正面から見て真ん中に定規で真っ直ぐな線を引いたように左半身が杏、右半身が瞬という状態です。脳がどうであるかの記述はなかったと思います。そこに触れますと物語が成り立たなくなるからかもしれません。
とにかくふたりは別人格を持っており声も異なっています。ひとりは眠っているがもうひとりは起きており(覚醒しており…)眠っている相手を意識している記述が頻繁に出てきます。
ですので現実(小説の中の…)と記憶や瞑想や妄想が入り乱れて記述されますのでなかなか小説全体としてもまとまりません。結局と言いますか、やはりと言いますか、こうした話はどうしてもスピリチュアルな方向に引っ張られることが予想され、この小説ではそれを必死に現実に引き戻そうとしているに感じます。
叔父の死と陰陽魚太極図…
物語の軸と言えるのは叔父の死です。
物語としてもあまり展開がなく動的な小説ではありません。その代わりというのもなんですが、二人の父親にもかなり特殊な出生の経緯が盛り込まれています。父親は寄生性双生児として生まれているのです。
寄生性双生児というのは、双子として生まれるべきだったひとりがもうひとりの体内の中に未成熟のまま残って生まれること(正確ではないかもしれない…)らしく、この小説では、杏と瞬の父親は叔父の出生当時にはその存在が見つからずに叔父の体内で育っており、1年後に叔父の右脇腹あたりから取り出されたということです。
その叔父が亡くなります。タイトルの『四十九日』はその叔父の四十九日ということであり『サンショウウオ』の方は陰陽魚太極図がサンショウウオに見えるということです。
Gregory Maxwell, Public domain, via Wikimedia Commons
かなり強引に感じますが、高校時代の社会見学か何かで博物館に行ったときの話として出てきます。これが二匹のサンショウウオのように見えたいうことであり、博物館の館長の解説として、
白の頭部の中心には黒い点が、黒の頭部の中心には白の点があるでしょう。陽中陰、陰中陽とそれぞれ呼ばれていて、陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる、を表していて、対極はその果てで反転して循環するという意味であります。
という話を、叔父の死への想念から思い出し、
私と瞬は白と黒のサンショウウオとなった。互いの尻尾を食べようと、追いかける二匹のサンショウウオ。
(82p)
となります。つまり、叔父の死によって、ふたりのうちどちらかが死んだらもうひとりはどうなるんだろうということです。
ひとつの身体の中の他者…
書いていませんが、実は叔父の体から父親が取り出されたとき、左脇腹あたりにもうひとり生まれるべきだった兄弟の痕跡があったのです。バニシングツインです。
杏と瞬は三兄弟であるはずだった父親たちを自分たちに重ね合わせて、
ずっと、杏と同時に死ぬと感じていた。同じ日ではなく、同じ瞬間。心臓は一つしかないから、死ぬのは同じ瞬間しかありえない。そう思っていた。片方だけが死んで、片方だけ生きていくことになるとは想像すらしなかった。
その思いが、叔父の体の中で死を迎えたひとりの兄弟、そして叔父が死んでも元気に生きている父の姿に重ね合わされ、
意識だけが振動している。肉体を離れても意識はある。死んでも、意識は続く。死が主観的に体験できない客観的事実で、本当に恐れるべきは肉体の死ではなく意識の死ならば、どういったことで意識は死を迎えるのだろうか。
(123p)
と、やはりここにいたるしかないよなあという堂々巡りを繰り返します。このとき、最初に書いたように杏は扁桃腺炎で高熱にうなされています。
ここでもやはり杏がこの瞑想(妄想…)状態から現実に引き戻す役割を担います。手鏡を取り喉を見て「腫れてる」と声に出し、さらに鏡で顔の右半分(瞬…)を映し、「きっと一人だけの体だったら、この子は可愛い女の子だ」と思うのです。
そして最後は瞬が杏を意識する、杏の誕生(とも言える…)の場面です。5歳の幼稚園児の瞬が芋掘りに行き、体の熱っぽさに突き動かされるようにひとり山に入り、アオミドロに似た藻が覆う池で、これまた何かに突き動かされるように一面の藻の下からザリガニを掴み上げたとき、
その瞬間、いると感じた。ザリガニと同じくらいいると確信できた。
そして、喉が震えて、
「まえかや、ざいがに」
口が勝手に動いて言葉になる。自分の口から自分以外の声が出たことに驚きはなかった。言葉になった次の瞬間には、自分の半分を手放していた。
と、サンショウウオの生息地を思わせるロケーションでひとつの身体を持った杏と瞬が誕生するのです。
作家本人がスピリチュアル…
という、未知の領域に切り込もうとしている小説ではありますが、やはりそれは小説が担うべきものではないのでしょう。話は最後まで曖昧模糊としたまま進みます。
出版社である新潮社のサイトに朝比奈秋さんと萩尾望都さんの対談が掲載されています。
その噛み合わなさがとても面白い対談です。その中で朝比奈さんが
過去の小説を全然読まずに書き始めたんです。ある時小説が思い浮かぶようになって書き始めて、それから小説を読むようになりました。それまでは国語の教科書でしか読んだことがなくて。
とかたるばめんがあり「医学論文ばっかり読んでました(笑)」と笑っています。さらに萩尾望都さんが小説について質問することに対して、
いやぁ……なんか思い浮かんでくるんです。書く前に考えているのではないし、好きで書いているのでもなく、思いつくから書いていて。
なんだか上の方からくるというか。産まれた子供が衰弱していって、体内の弟に栄養を吸われているという話になって、「もう一人おったんや!」って。僕も物語の受け手で「ああ、そういう物語なんや」と思いながら書いてます。考えて書いている箇所もありますが、いまご質問いただいたところは、僕は考えていなくて、だから答えられないんです
と語っています。作家本人がスピリチュアルです(笑)。
ユニークですね。