高山羽根子『首里の馬』感想・レビュー・書評・ネタバレ

2020年上半期の芥川賞受賞作です。やっと読み終わりました(笑)。

実は、この『首里の馬』、図書館で借りるのは3度めです。読みづらいとかそういったことではなく、たまたまこの本を読み始めると他に優先的に読まなくてはいけない本が発生して後回しになってしまい、返却日が来てしまうという繰り返しでした。

芥川賞にしてはちょっと異質…

それだけ、どうしても今読みたいと思えなかった(ゴメン…)ということにはなります。

芥川賞受賞作にしてはちょっと異質な感じのする小説でした。原稿用紙230枚らしいですのでちょっと長めということもありますが、内容的に何となくぼんやりした感じを受けます。

で、プロフィールなどをググっていましたら、ウィキペディアに SF作家って肩書が書かれています。実際、作家デビューは SF小説のようです。

この『首里の馬』は SF というわけではありませんが、どことなくファンタジー感がありますので、ぼんやりという言葉の選択はともかく、現実感の希薄さに対してそう感じたのかも知れません。

台風の日に突然庭に宮古馬が現れたりします。それも当初は馬であるかどうかもはっきりしない塊として表現されています。その後もその馬に乗って街なかをゆくのですが、周りの人々もそのことにまったく反応しないと書いています。実在していないかのような書き方ということです。

実在感の薄さ…

実在感の薄さはそうした描写だけではなく、内容的にもそう感じます。

3つのプロットで構成されているのですが、その3つにほとんど関連性がありません。ですので、それらが最後まで宙ぶらりんのまま終わってしまう印象です。

沖縄浦添市の港川外人住宅街を舞台にしています。主人公未名子の一人称で語られていきます。

資料館

まずひとつ目のプロットは、主人公である未名子が自ら望んで資料の整理を手伝っている私設資料館の話です。未名子は中学の頃沖縄に引っ越してきたのですが、学校に馴染めず(何も書かれていない…)民俗学者の順(より)さんが自ら集めた沖縄に関する資料を保管展示する資料館に出入りするようになり、そのまま成人しても順さんの手伝いとして資料整理にしています。

この資料館や順さんという存在が相当ミステリアスで、順さんの人物像も明らかにされませんし、未名子と順さんの会話もありません。資料館の資料も具体的にどんなものかの記述もありません。ただ、未名子が整理する方法などを未名子自身が語っていくだけです。

問読者

ふたつ目のプロットはさらにミステリアスです。といいますかかなり怪しげです。未名子の仕事なんですが、未名子ひとりしかいないオフィスに通い、パソコンのビデオ通話を使って外国人に対して日本語で3つのキーワードを言いその答を待つのです。たとえば

「問題。小さな男の子、太った男――そしてイワンは何に?」

といった具合です。それが済みますとちょっとした雑談は許されているとのことです。

通話の相手は3人登場します。宇宙ステーションのヴァンダ、深海のポーラ、戦場のシェルターギバノです。共通しているのは皆ひとりで孤独ということです。面接を受けた上司カンベ主任からは「孤独な業務従事者への定期的な通信による精神的ケアと知性の共有」の仕事と言われています。

宮古馬

そして3つ目が宮古馬の登場です。それは台風の夜、突如庭に現れます。

Miyako miyakouma 2014
Paipateroma, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

ウィキペディアには小型でポニーに分類され、農耕に利用されるとあります。

小説の中では黒い塊と表現され、うずくまっていたために翌日までそれが何かわからないままになります。馬はうずくまることはないとは思いますがとにかく宮古馬とわかりますと未名子はしばらくは家の中に入れます。そして後に警察に届け出ますと、宮古馬は自然公園に移されていきます。

3つはつながるのか…

という3つが物語上ではつながることなく語られていきます。

そして終盤になり、順さんの死によって少しだけ物事が動き始めます。順さんには歯科医の途さんという娘がいます。途さんは未名子に資料館を閉めることにすると言います。未名子は常々データ化していた資料館の資料を問読者として相対してきた3人に託すことにします。

未名子はカンベ主任に問読者の仕事を辞めることを伝え、そして最後のビデオ通話で3人にデータを送り、最後の3つのキーワード「にくじゃが、まよう、からし」を告げ、その答を待つことなく通話を切ります。

この3つのキーワードは小説の中では明らかにされていませんが、ググりますと「世界中を3メートル四方に区切り、それぞれのマス目に固有の3つの単語の組み合わせを割り当て」た what3words というものがあり、そのシステム(と言っていいのかよくわからないが…)では「首里城」を指すとのことです。

資料館と問読者の2つはかろうじて関連性が持たせられているということになります。

そして宮古馬です。未名子は自然公園に忍び込み宮古馬を取り戻し、ヒコーキと名付け、ガマに隠し、毎日のように通い乗馬の稽古をします。

こんな本を見つけました。その解説を引用しますと、

琉球・沖縄で行われていた競馬は「馬追」(ンマウーイ)「馬勝負」(ンマスーブ)などと呼ばれて、宮古馬などの小柄な沖縄在来馬が、速さを競うのではなく、足並の美しさを競った優雅な競馬である。馬具に華麗な装飾を施し、直線走路で美技を競い合う独自のスタイルが、琉球王朝時代から戦前まで約三〇〇年間、連綿と受け継がれて、沖縄人・ウチナーンチュを熱狂させた。昭和初期には、「ヒコーキ」という不世出の名馬が琉球競馬の頂点に立ったと伝えられる。だが今、その詳細は、どこにも明かされていなかった。何故、琉球の競馬は消えてしまったのだろうか? 名馬「ヒコーキ」はいずこへ……。

ボーダーインク

「ヒコーキ」という宮古馬の競走馬は実在していたということです。

未名子はそのヒコーキにまたがり町に出ます。人々がその姿を特に目に止めることはありません。

土着感のなさ…

やはり、ぼんやりという感覚が抜けない小説です。

一番感じることはある限定的な地域の話を書きながらそこに土着感がまったくないということです。批判的な意味で言っているわけではありませんが、なんだか地に足がついていない感じがします。

その土地の者じゃなければその土地の話がかけないわけではありませんが、高山羽子さんは富山県出身で多摩美術大学美術学部絵画学科で学び、おそらく東京在住でしょう。

沖縄の描写がほとんどありません。沖縄の人々の人物描写もありません。そうしたことからだと思いますが、沖縄の土着感をまったく感じない小説です。宮古馬を除けば沖縄の話でなくてもいいんじゃないのと思います。さらに言えば宮古馬である必要もなく、馬であるかどうかは別にすればどこの地方の話でも成立します。

ある意味、そうしたふわふわした地に足がついていないところから逆に「孤独」というものが暗くなく、重くないものとして立ち上ってくる感じはあります。