高瀬隼子著『うるさいこの音の全部』

おいしいごはんが食べられますように』で2022年上半期の芥川賞を受賞した高瀬隼子さんの受賞後2作目の単行本です。その間に『いい子のあくび』という本が出ています。

この作家のタイトル付けは特徴的ですね。『水たまりで息をする』とかね。

うるさいと言えれば、ここは静か…

文学賞を受賞した兼業作家の心の内が綴られていきます。高瀬さん自身も兼業作家とのことですので、すべてが作家本人のものではないにしても少なからず本音はもれているのでしょう。

と思われているだろうと思う作家の苦しさがテーマの小説です(多分…)。

で、この設定で誰もが思いつきそうなネタはまわりの人間の豹変ぶりといった話ですが、多少そうした話も出てくるにしてもそれが主題ではなく、作家という世界に足を踏み入れた者のアイデンティティの揺らぎみたいものがこれでもかこれでもかと最後まで続きます。

何しろこの作家(小説の中の作家です…)は今の自分は本名の自分なのかペンネームの自分なのかとうだうだうだうだと(ゴメン…)最後までいい続けるものですから、いい加減にしろ、どっちでも同じだろ、あんたはあんただ(笑)と言いたくなってしまうような小説です。

それにそのうんざり感が解消するのは、なんと! 表題の『うるさいこの音の全部』の中ではなく、併載されている『明日、ここは静か』の最後の数ページになってからなんです。

この本は表題作の『うるさいこの音の全部』と『明日、ここは静か』の2作で一冊になっており、2作が連続といいますか、時系列としても『明日、ここは静か』は『うるさいこの音の全部』のその後というつくりになっている小説なんです。

『うるさいこの音の全部』はゲームセンターで働く長井朝陽が早見有日のペンネームで某文学賞を受賞し、職場の同僚から祝福されたり、職場の広報に利用されそうになったり、地元の市長からお祝いが来たりするという話で、『明日、ここは静か』は、その後2作目で芥川賞を受賞してさらにまわりが賑やかになり、インタビューを受ける回数も多くなり、ついに自分を保てなくなってゲームセンターを辞める決心をするという2作が連動している小説です。

過去の2作『おいしいごはんが食べられますように』と『水たまりで息をする』を読んだ上で言いますと、この小説はあまり出来がよくありません。『うるさいこの音の全部』の出来に後悔があり『明日、ここは静か』を書いたんじゃないかと思うくらいです。

高瀬隼子、長井朝陽、早見有日…

大学生の女子4人が中国人の青年を弄ぶ話から始まります。とても嫌な感じのする話なんですが、まあ小説なんですからなにか意図があるんだろうと読み進めていきますと、どうやら小説の中の作家長井朝陽が書いている作中作だとわかってきます。

4人は東京の大学に通っている地方出の学生です。いつもつるんでいます。その日も主人公の女子のアパートに集まりゴロゴロしています。お腹が空いたねと言い、向かいの中華料理屋に繰り出し、店の息子をカッコいいねとおだてながらビールが飲みたいけどお金ないんだよねなどと言ってタカります。

その後その主人公は青年と付き合うことにし、そのことを4人でネタにしたした後、ある日意味もなく別れよと言って突き放します。そしてまたそれをネタにするのです。さらにその青年がなぜ別れるかわからないと話しかけてきますと警察に電話をし警官を呼ぶのです。そして主人公は警官に、友達と中華料理屋に行ったらあなたたち可愛いからタダにしてあげると言われそれに乗ったら次の日から付きまとわれたと答えます。さらにその後もSNSでそれをネタにしたやり取りを楽しむという4人の女子たちの話です。

という作中作が長井朝陽の日常と交互に記述されています。

朝陽はショッピングモールの中にあるゲームセンターで働いています。すでに文学賞を受賞しているところから始まり、そのことが職場内に知れ渡っています。休憩室から聞こえてきた「へー、ナガイさんっていい人なんだけど、小説なんか書いてたんだ」の言葉に、

小説なんか、と攻撃的な言葉を使っているわりに、続いたのは「すごいねー」という率直に感心しているようなまるい声だったので、どうやら小説は攻撃されていない。とすると、攻撃対象は「いい人だけど」の方か、と考えてしまう。いい人だけどつまらないしその場をふわっとやり過ごすこと以外なにも考えていなさそうなのに、小説なんて書けるのね。

と、被害妄想的に考えてしまう長井朝陽という人物です。

職場の皆が知っているわけは自ら公表したわけではなく、職務規定に副業は事前に申請することとあるためにマネージャーに報告したことから広まったということです。その後、同僚たちの間で話題にされたりサインを求められたり、本社の広報誌にコラムを書いてほしいとの依頼が来たり、地元の市長からお祝い電報が来たり、SNSでは同級生たちの投稿が溢れたりするわけですが、朝陽はそのたびにそれが長井朝陽へのものなのか早見有日へのものなのかと悶々とするようになります。

という小説ですので、いずれ作中作が朝陽とリンクしてくるんだろうと予想して読み進むのですが、なぜか半分くらいをもって作中作の中国の青年は消えてしまいます。

ちょっとした異様さもありますし、浮いた感じのするこの作中作はいったいなんなんでしょう。

多分、作者(高瀬さん…)は、小説は作家とは別物で登場人物イコール作家本人じゃないことをこの作中作で示そうとしたんじゃないかと思います。同僚との会話の描写で、ナガイさんって中華料理嫌いだよねとか、その店で店員のことをあの子は日本人だからと言われたことに、

今書いている小説をこの人が読んだらどんなふうに思うんだろう、と朝陽は胃の中が冷たくなる。主人公の軽薄さを表現するために差別的な言動を書いているのだと説明したら、どんな反応が返ってくるのだろう。「だけどその差別的な言動っていうのを考えて書いたのもあなた自身だよね」と言われたら、そのとおりだ。自分の中にないものは書けないはずだよね、と問うてくる人に「そんなことはない」と言い返す気概が、朝陽にはない。本当にそうだろうか、と疑う自分のほうが強くいる。

と書いています。

その後も作中作は続き、バイトの話やその後就活をやめてバイト先のホームセンターに就職したとか、ホームセンターがいつの間にかゲームセンターになったり、作中作の主人公が小説を書いていたり、久しぶりに例の中華料理屋に行ったりする記述があり、無理やり作中作を朝陽の日常にリンクさせようとしている感が強くなってきます。

ということで長井朝陽、ペンネーム早見有日の2作目が世に出ることになります。

作家は嘘をつく…

というのが『うるさいこの音の全部』の内容なんですが、作中作とのリンクもあまりうまくいっていませんし、話が高瀬さん本人の環境に近過ぎます。結局、作家自身が書いたものは自分の本心かなんてことを言い出しちゃいけないし、そもそもタブーに近いことじゃないかと思います。

だって、堂々巡りでしょ。長井朝陽は高瀬隼子かということになるわけで、わたし悩んでいます、でもそれは嘘でしたなんて小説、おもしろいわけがありません。

『明日、ここは静か』にはそのことが書かれています。

長井朝陽、ペンネーム早見有日が2作目にして芥川賞を受賞します。あっちこっちからインタビューを受けます。そのたびに朝陽は自分が話していることは朝陽なの、有日なのと自分に問い続けながら記者の質問に答えています。

朝陽本人は本当のことを話そう、嘘をつかないようにしようと思っていても、いざ話をしてそれが記事なり、あらためて読んでみると嘘ばかり書かれているように感じるといいます。

そしてますますうるさくなった周りについにキレてといいますか、メンタルに不調をきたしてといいますか、自分は嘘をついていると思い始めます。

今は、目の前に座っている人たちがどこの誰なのかわからない。嘘だ。さっき名刺をもらったから分かっている。(略)だけどそれが、どういう意味を持つのか分からない。早見有日がインタビューを受けて答える、それが記事になる、その記事が届く人たちの顔が、想像できない。だから目の前の、今ここにいる、名刺と水とボイスレコーダーを挟んだ向かい側に座るこの人の、求めていそうなことしか話せない。

と、嘘と自認しつつ、それが作家の良心であるかのように朝陽が苦悩し続けます。

そしてラスト数ページ、

「なんか、嘘っぽいんだよなあ」と朝陽はインタビューを受けた記者から突き付けられます。「早見先生、なんかちょっと作って話しちゃってます?」

と、まあ現実にはこんな記者はいないとは思いますが、朝陽にとっては苦悩の結果の言葉がいとも簡単に嘘と見抜かれてしまっています。そして、追い打ちをかけるようにその記者が帰った後に同席していた朝陽付きの編集者からも先日の女性誌の取材の話「あれは、嘘ですよね」と言われてしまいます。

そのとき、女性誌の記者から1作目が文学賞の候補になったときの話を振られ、その候補作の校正のために編集者(瓜原さん…)と喫茶店で会って話をした後、旅行者の男の人に声を掛けられ、食事に誘われ、タクシーで片道2時間かけて蕎麦を食べに行き、その人はホテルを探して泊まるということになり、さすがにホテルについていくことはなく電車で帰りましたと話したのです。

瓜原さんはその話について、あの時1時間後くらいに打ち合わせがあり出掛けたところ、たまたま別の喫茶店でぼうっとしている早見さんを見かけたと言い、そして打ち合わせを終えて3時間後くらいにその前を通ったらまだ早見さんはいたと言います。そして、きっと緊張して醒めないでいるんだなと思い声を掛けなかったと言います。

えー、いやいや。あはは、と薄く笑って見せたわたしに、瓜原さんは珍しく傷ついた顔を隠さなかった。それを見ないように目を逸らして、口と目で笑ったまま少し苛立つ。だってどうしろっていうの。成立させなきゃ、うまくまとめなきゃ。(略)瓜原さん、わたしPALの仕事を辞めるんです。働く自分と小説を書く自分が、昔は少しずつ重なり合ってグラデーションのように日々の中にあったのに、今は断絶して個々にあるようで、自分で、自分が苦しいんです。そしてそのことを、もう少しであなたに言ってしまいそうなのも苦しい。

「なに、考えてますか? 早見さん」

瓜原さんが傷ついた顔のまま訊ねてくる。

「……言いたくないです」

きっと「うるさいこの音」は「明日、静か」になることはなく続くのでしょう。長井朝陽には、また高瀬隼子さんにも…。