「大きなハードルと小さなハードル/佐藤泰志」にとって生きることはハードルなのだろう。いいえ誰でも。

大きなハードルと小さなハードル (河出文庫)

大きなハードルと小さなハードル (河出文庫)

  • 作者:佐藤 泰志
  • 発売日: 2011/06/04
  • メディア: 文庫
 

海炭市叙景」を読み始めて以来、出版されているものでは最後の作品集になってしまった。全体は7編の短編集だが、表題作を含む前半5編は、私小説のようでもある「秀雄もの」と呼ばれているらしい連作である。

「美しい夏」「野栗鼠」「大きなハードルと小さなハードル」「納屋のように広い心」「裸者の夏」

「秀雄」の抱えるやりどころのないいらだち、これが理解できないと、いや理解などできないから「やりどころがない」わけだが、その感覚がストンと心に落ちてこないと佐藤泰志の作品は、多分つまらないだろう。この連作の中で結婚する女「光恵」が言う。
「あんたが何を苛立っているのかわからないのよ」

あらすじなど書いても仕方ないのだが…

「美しい夏」
秀雄と光恵、二人は一間の部屋で一緒に暮らし始めている。終電車でけんかをし、3時頃警察から戻った秀雄は、起きてきた光恵に
「金はあるか」
「5万円ぐらいなら」
「引っ越すぞ」
「何よ、急に」
「こんな街は出るのだ」
そして翌日、郊外の「駅は閑散とし」た「一緒に降りた客は数人しかいな」い街へ行く。その間に、昨日のけんかのことやサッカーのゴールポストの下敷きになって死んだ同級生の話やウェイター仲間で沖縄出身のネギという男の話が語られる。

「野栗鼠」
すでに結婚し「陽子」という娘がいる。祖母が亡くなり、生まれ育った家に家族3人で戻っている。海岸、路面電車、そして3人で歩いて登ることにした「お父さんのお山」、彼の作品に幾度も出てくる故郷「函館」だろう。「戦争の時代にはこの山全体が要塞だった」その山は、「一機の戦闘機も、一艘の戦艦もここにいた兵隊は、見ないうちに敗戦した」山だと語り、言葉では、この街はきらいだと言いながら、捨てきれない思いが強く漂っている。

「大きなハードルと小さなハードル」
家族3人で川へ泳ぎに行く。秀雄は、不眠に悩まされているらしく、すでにアルコール中毒になっているようで、仕事も辞め、失業保険で生活している。光恵との間も崩壊気味で、光恵は実家の静岡へ行くことに決めたようだ。朝から酒を飲み、一人で暴れ、ガラスを割った日のことが語られる。一見幸せそうにみえる家族とどうしようもない泥沼に囚われた心の対比が痛い。

「納屋のように広い心」
故郷に移り住んでいる。重症のアルコール中毒を一度乗り越えている。光恵が書き置きを残して家を出た。幾度も繰り返されていることなのだろう。連絡船に乗って青森まで追いかける。仙台の友人のところへ身を寄せるつもりのようだ。警察の手も借り、乗り場でつかまえ、一緒に一泊する。「駅前の日本風の、いい旅館です」との客引きに従い、不安ながらもついて行くと、その客引き本人が主人と思わしき「しみったれて、さびれた旅館だ」った。ところが「ひと部屋空いていたはずなんですが」といいわけをし、「違う部屋ならあります。きれいな部屋で、風呂もついています」と、旅館の奥へ奥へと増築に増築を重ねたような廊下をついて行くと、いきなり「けばけばしい派手な」雰囲気に変わった。モーテルである。切羽詰まった秀雄の心情とモーテルでの軽妙な雰囲気が楽しい。

「裸者の夏」
アルコール中毒は回復したのだろうか、仕事も得て、週末を光恵の実家静岡で過ごしている。義父は、引退後、朝昼晩とビールを2,3本飲むのが日課になっており、朝から「飲まないかね」と誘われ、「いえ」と言葉足らずに答えた居づらさに、陽子と川遊びに出かける。義父のこと、静岡へ来る途中であった電車事故(自殺のよう)のことなどが語られ、川から家へ戻る途中、じっと動かず一本の木を見続ける老人に出会う。老人は蝉の脱皮を見ているのだ。「蝉の脱皮は夜の明けない前にやるものだ。そして、朝日を受け、羽が充分に乾いてから飛び立つ」。

「もう蝉の季節は終わりだ。生まれるのが遅すぎる」
「早いんですよ。本当は来年のつもりだったんでしょう」
と締めくくられる。