『東京都同情塔』で2023年下半期の芥川賞を受賞した九段理江さんの単行本化一作目『Schoolgirl』です。2021年下半期の芥川賞候補作となったその表題作に、デビュー作にして文學界新人賞を受賞した『悪い音楽』が併載されています。
音楽的リズムで言葉がほとばしる…
デビュー作の『悪い音楽』から受賞つづきのようで、この『Schoolgirl』も2023年の芸術選奨新人賞を受賞しています。
たしかになにかもっていると強く感じます。才能という意味で言えば、軽やかな才能といった感じです。『Schoolgirl』『悪い音楽』どちらも言葉が溢れ出てくるような文章でスピード感があります。
瞼をこじ開ける。光になる前の、ただ薄暗い色の波が目に散らばる。毛布を離れた体が冷たい。さて、今日だ。今日とは昨日時点でいうところの明日。きっと来る、明日は来る、と昨日信じた今日が、本当に来た。自分が誰だったかを思い出す。何もかもを思い出す。女友達などいなかったことを思い出す。
(9p)
太宰治の『女生徒』が重要な要素となっている小説ですので、それを意識して書いている部分ですが、言葉のリズムがとても音楽的です。
ふと、金原ひとみさんを思い出しました。傾向はまったく違いますが、金原ひとみさんが『蛇にピアス』で登場してきたときにも言葉がほとばしって出てきているような印象を持った記憶があります。20年前ですね。ただ、年齢は7歳くらいしか違わないようです。
この『Schoolgirl』は母と娘の話なんですが、そう言えば、金原ひとみさんも『腹を空かせた勇者ども』で母と娘の話を書いています。書きかけのレビューが眠ったままになっています(笑)。
母と娘の対立ではあるが…
主題は母と娘の対立であり、そこに時代的なもの、特に娘の方にZ世代と世に言われている価値観が強く反映されています。一方、母の方はその娘から世の中の無駄なもの、小説というフィクションの世界に安住する無知なる者と位置づけられます。
ただ、意外にも、いや、実は意外ではないのですが、娘はその言動とは裏腹に母のことを一生懸命理解しようとしているという展開になっていく小説です。
娘は14歳、バイリンガルで、ベジタリアンで、環境保護主義者で、タイパ至上主義者で、ユーチューバーです。インターナショナル・スクールに通っており、友達とも英語で話し、家でも外資系の会社で働く父親とは英語で会話し、日本語は母と話すときに使っていると言っています。
娘は世の中を対立関係で見ています。英語と日本語、自分自身英語で話す時はクリアだが、日本語で話し始めるととたんに曖昧になってしまうと言います。他にもドキュメンタリーとフィクション、効率と非効率、動画を倍速見ることに抵抗は感じません。ニュースは本物で小説は偽物、本当と嘘、現実と夢といった具合です。
母は元文学少女で、毎日のように悪夢のような夢を見て目覚める専業主婦です。娘からは無知で空っぽと言われています。その言葉とは裏腹に娘は母を理解したいと思っているわけですが、母の方は娘を理解できない存在として固定化してしまっています。
その母の一人称記述で進み、その間に母が見る娘のユーチューブチャンネル「Awakenings」の音声の文章が交互に入るパターンで進みます。
太宰治『女生徒』…
Awakenings、目覚め、覚醒です。そのチャンネルの目的は、上に書いた本人の信条に基づいたもので、眠れる大衆に向けてあなた達の便利で快適な生活は多くの犠牲の上に成り立っている、目覚めよ! ということのようです。普段は英語のチャンネルですが、この小説の中で初めて日本語で発信します。その理由は太宰治の『女生徒』を紹介したいからだと言っています。
読み進んでいるときには言葉に圧倒されて感じませんでしたが、あらためて思い返しますとちょっと違和感を感じる設定です。なぜそんなマイナーな本に注目したんでしょう。娘は、わざわざ母が書庫代わりにしているクローゼットに入り、それも母の人生の履歴ともいえるかなりの量の本の中からその本を選び出してきています。
まあ、そもそもこの小説がその『女生徒』から発想されていると思われますので、そんなことに突っ込んでも仕方ないのですが(笑)、そのことに対して娘は『女生徒』の中にやたらお母さんという言葉が登場することに注目しています。母のことが気になってしかたない、そしてまた、そんな自分を持て余している娘ということでしょう。
その意味では、設定としてはあまり現実感のある話ではありませんが、こと一般的な母と娘の関係においてはかなり現実的なことなのかもしれません。つまり、娘というものは常に母のことを考えているのに、母は目の前の14歳の娘を見ているのではなく、娘に自らの14歳の姿を見ようとしているということかと思います。
母はかなり冷めた目で娘を見ています。用意した朝食に娘が挑発的に文句を言っても受け流しています。娘のユーチューブチャンネルを見ていても娘のことを考えているわけではありません。自分には理解できない怪物のように見ています。と言うよりも、そんなことなどどうでもよいらしく、その時母は、自らの14歳の頃を思い出してまどろみ、また、娘のカウンセリングとして診察を受けた心療内科医にはしっかり反論しながらも、その心療内科医に自分が14歳のときのことを考えなさいと言われれば、たまたまその時、以前通っていたジムのトレーナーからの突然のメールが入れば、それに応えてホテルに行き、自分を14歳と妄想しながらセックスするのです。
そして、その夜、娘がユーチューブチャンネルで『女生徒』を紹介したことを知った母がそれとなく話を振りますと、娘は、
お母さん、今は、小説の話なんかしてる場合じゃないんだよ。なんでニュースを見ないの? 自分には関係ないと思っているから? どうしてそんなに世の中に対して無責任でいられるの? お母さんは、たとえ明日から戦争が始まるっていう日でも、そうやって小説の話をするつもりなの? 本当にそれでいいと思っているならお母さんはおかしいよ。お母さんは、本当に、それで
(75p)
と、挑発してきます。母は、
(略)でも、どんなニュースだろうとドキュメンタリーだろうと、それがひとつの小さな説である点では、小説とたいして変わらないんじゃないの?
と返します。
「小さな説」にはちょっと笑ってしまいましたが、こんな感じで、おそらく初めてであろう母と娘の論争が始まります。いや、論争にはなっていなくて、母が、その昔『女生徒』が書かれた頃の話を持ち出し、あの頃世の中は日中戦争真っ只中で皆が戦争に勝った勝ったと浮かれていたけれど、それから一世紀近くたった今残っているのはそんな大説ではなくてあなたも読んでいる小説の方じゃないのと、かなり飛躍した論理で(笑)やり込めてしまいます。
まあ、やり込めるという言葉はなんですが、そもそも母と娘という関係には大きな力の差がありますし、ましてやこの娘は母を理解したいと思っているわけですから、母が真正面から自分に相対してくれれば素直にならざるを得ないということだと思います。
そして、娘はちょっとだけ母のことがわかったような気がしてほっとし、でもなぜこうも自分にとってお母さんは大きな存在なんだろうとちょっとだけ困惑するのです。
尻切れトンボ感が…
という母と娘の間にはなにか特別な関係があるかもしれないと思わせてくれる話でした。
ただ、なんとなく言葉の圧倒感のようなもので読み終えたものの、あれ? ここで終わっちゃうの? という尻切れトンボ感も感じます。え? 話はこれからじゃないの? とか、ここにいたる話はどうなの? とか、映画で言えば、2時間のうちどこかの30分くらいを見たという感覚です。
続けて『悪い音楽』も書こうと思いましたが、長くなりそうですのでまたあらためてということにします。
実は、言葉がほとばしるとか、圧倒的とかを強く感じたのはむしろ『悪い音楽』の方なんです。