平野啓一郎さんの『本心』が石井裕也さんの監督で映画化されると知り読んでみました。
「自由死」のある世界…
時代設定は2040年代初め、近未来の日本です。主人公の石川朔也は29歳、母子家庭で育ち、母親をなくした半年後から始まります。
その時代、「自由死」が合法化されています。「自由死」の合法化ってかなり適当な言葉ですが、実際、小説の中でもそのこと(死において自由とは何かということ…)に深くコミットするわけではなく、物語を構成する一つの要素程度の扱いです。積極的安楽死が合法化されたという表現が一番近いようです。
半年ほど(のもっと…)前、母親が朔也に「もう充分生きたから」「富田先生と相談して、自由死の認可をもらってきたの」と告げます。富田先生というのは医師であり、登録医とあるだけでそれ以上の説明もなく、その医師が患者(というのも変だが…)の自己決定権にもとづいて、人生に対する満足感や納得を聞き取って認可するという仕組みのようです。
「自由死」がテーマの話ではありませんのでまあいいのかなとも思いますが、率直なところ、この設定で現実感のある物語はまず無理でしょう。
実際、母親は事故死してしまいます。仕事のため母親の最期に立ち会うことが出来なかった朔也は、母親の選択に反対するばかりで話し合うこともしなかったことに後悔を感じています。身体的不自由があるわけでもなく、70歳にもなっていない母親が自ら死を望むに至った理由は何だったのか…。
その「本心」を知りたいと願う朔也の物語です(表向きは…)。
ヴァーチャルフィギュア(VF)とリアルアバター…
そのための行動のひとつが母親のヴァーチャルフィギュア(VF)製作です。
VFというのは、AI によって死んだ人間を蘇らせる技術らしいです。ただ、このVFについても大した突っ込みはなく、その人物の過去のデータをもとに仮想現実としてゴーグルの中で存在させるだけの話です。
実際、朔也がVF母親と話すシーンもあるにはありますが、小説全体の中であまり重要な位置を与えられておらず、当然ながらVF母親が本心など語るわけもなく、仮に語ったとしても人の本心などわかるはずもなく、噛み合わない会話が続くだけです。
なんだか否定的なことばかり書いていますが、そうではなく、この著者が書こうとしているのはそうした近未来的な話ではなく、実は、今まさに現実であるこの社会の抱える矛盾(の表層…)とその中で行き場のなさを感じている人間たちを書いているということです。
実際、この小説の中で重要な人物は生前母親と最も親しかったという三吉彩花という女性です。また、あまり登場シーンは多くないのですが、朔也の同僚である岸谷も重要人物のひとりです。
朔也や岸谷の職業はリアルアバターといい、依頼者からの要望に従ってゴーグルをつけて現実社会を実際に移動して依頼者のゴーグルにリアルアバターの実体感を送るという仕事です。これもあまり具体的な記述はないのですが、多分、映像だけではなく音や匂いや皮膚感すべてにおいて体感できるという設定だと思います。
死ぬ前に故郷の小樽へ行きたいという依頼者の要望をかなえる場面があります。また、母親を河津七滝へ連れて行く場面もあります。これは母親が動けないということではなく朔也の仕事を見てみたいということで、ここで母親は朔也に自由死のことを告げます。
そして、もう一場面、朔也の運命を変えるリアルアバター仕事があります。その依頼者(たち…)の目的はリアルアバターをからかうことです。入院患者の見舞いと称して、30度を超える蒸し暑い中、スーツを着て来てほしいと言い、見舞いの品を買うために街中を歩き回らせ、デパートで店員を困らせる注文をさせ、必死に耐える朔也を「リアルアバターって、ホントに何でもやるんだな」と嘲笑します。
抑えの効かなくなった朔也は依頼者を無視してコンビニに入り水を買おうとします。そのコンビニでは見知らぬ男が東南アジア系の女性店員に向かって「ここは日本!チャンとした日本語が喋れないなら、国に帰れ!」と怒鳴っています。朔也は「止めろ!」と間に入ります。男は「どけ!」と朔也を突き飛ばします。
それ以上のトラブルにはなりませんが、リアルアバターの依頼者たちが面白がってこの動画をネットに上げます。そして朔也が知らない間にその動画がバズっているのです。
物語は自由死を離れラブストーリーへ…
という大枠があり、話は本題に入ります。この小説には現実社会の矛盾(の表層…)がこれでもかこれでもかと登場します。
すでにいくつか出てきています。ネット上で横行する誹謗中傷や冷笑などのネット犯罪(的)行為、外国人差別、それに、そもそもの朔也母子の設定にしてもいわゆるシングルマザーであり、母親はいくつかの仕事を転々と変えざるを得なかったとあり、また朔也の過去にしても、朔也は高校を中退しているわけですが、その理由は同学年の少女が生活費を稼ぐために買春をしていたことで退学処分となり、それに抗議するために最後のひとりになっても座り込みを続け、結局、就学意欲を失って自主退学したということです。それゆえ朔也母子は貧困から抜け出せません。
「自由死」というのも現実的なテーマです。朔也自身は「自由死」に反対していますが、母親の「本心」を知りたいということは、それが母親の望みであったならば認めるべきではないかという意識の現れであり、その迷いがこの小説全編を貫いています。
おそらくこれは著者の「本心」の現れであり、原則的には「死」も個人の自由意志であるべきだが、現実の格差社会にあって果たして個人の自由意志は成立し得るのかという問いを自らにも投げかけているのだろうと思います。
結局、最後まで母親の「本心」がわかることはありませんが、富田医師との会話の中で、富田医師に母親は朔也にお金を残したかったんじゃないかとまで言わせています。「自由死」の合法化ということが弱者への「自由死」圧力になるのではないかということです。
本当はこのあたりのことにもっと突っ込んで書いてほしいとは思いますが、物語は「自由死」から離れ、より現実社会の歪みの描写(というところまでいっていない…)と、そしてラブストーリーへと向かいます。
傷つかない男、傷つく女…
朔也は三吉彩花にコンタクトを取り、最初は仮想空間上(アバターで…)で、そして2度目は現実空間で会います。三吉は朔也の2つ年上の31歳、旅館の下働きとして母親と一緒に働いていたということです。
三吉という人物の設定も上に書いたことそのものです。高校生の頃から母親の再婚相手から暴力を受け、家にお金を入れるために買春を強要されていたということであり、首を絞められてということもあったらしく、朔也の母親から朔也の高校時代の「英雄的行為」を聞き、親近感を持っていたといいます。
ラブストーリーというのはこのことで、朔也自身、高校時代の件の少女に愛を感じていたのかもしれないと語り、そして三吉にもその気持ちが重ね合わされているということです。
三吉が台風によって被災し避難所生活になります。朔也はうちに来ませんかと提案し、母親の部屋を貸すことにします。三吉は素直にその提案を受け入れますが、その時の会話がこの小説を象徴しています。最後に書きますが、この小説の朔也は「善き人でありたいと願う著者」の分身です。
朔也には何の魂胆もないことをあえて二人の会話で示そうとするのです。
三吉が、自分はいろいろな経験してきたから事前に言っておいたほうがいいと思うと切り出しますと、朔也は、自分は見返りを求めているわけではないと返し、三吉が、最後はお礼にヤラせろみたいな人たちがウヨウヨしている世界で生きてきたからと言わせています。
この小説の朔也は一貫して「善き人でありたいと願う」人物です。この意識で貫かれています。さらに言えば、この醜き世界にあって自分だけは正しく生きたいと願う「著者の分身」の朔也です。
実際、朔也が三吉に愛を感じていることは明らかですが、現実にはそれが成就しない展開にしてあります。
この作家の最近の小説は「マチネの終わりに」と「ある男」を読んでいるだけですが、男女の恋愛描写に関してはどちらも同じくこのパターンで、主人公の男の「善き人でありたい」プライドは必ず守られ、傷つくのは女の方になっています。ただし、そう見せないような仕掛けがしてあります。
「ある男」では、主人公の城戸に好意があるにも関わらず、相手の女にそれを言わせて城戸はそれにこたえず、さらに城戸の浮気心を正当化するように妻に浮気をさせます。「マチネの終わりに」はすれ違いメロドラマですので気づきにくいのですが、主人公蒔野を何も知らない立場に置き、常に苦悩させます。そして、右往左往するのは二人の女性であり、その内のひとり妻になる三谷には最悪のことをさせ、そのままフォローすることなく放っておき、蒔野には最愛のもうひとりと再会させて終わるのです。
今回もこのパターンです。
三吉はイフィーを愛していない…
ネット上でバズったコンビニでの動画からアバターデザイナーのイフィーという人物と知り合うことになります。イフィーは朔也が「あっちの世界」の人というように億単位のお金を稼ぐ超有名デザイナーで、そのイフィーが朔也の動画に200万円だったかの投げ銭(リアルアバター会社経由で朔也に渡るということまでつじつま合わせがしてある…)をし、朔也をヒーローと持ち上げたのです。
イフィーは「あの時、もし跳べたなら」が正式名称で車椅子生活の若い男です。都心のタワーマンションの最上階のメゾネットタイプの2フロアで暮らしています。朔也はイフィーから専属のリアルアバターになってほしいと依頼されてそれを受けます。イフィーは朔也に年収はいくらかと尋ね、300万円と答える朔也に700万円出すと言います。
そして、イフィーのもとに通う日々になります。ただ、リアルアバターとしての場面はほとんどなく、また、イフィーの人物背景にしてもほとんど描写はありません。イフィーに三吉を会わせることが物語上の目的だということです。そのために、朔也が初めて三吉に会うシーンを仮想空間として、その際三吉にイフィーのアバターを使わせており、わざわざイフィーのアバターは高いが自分は安いものしか買えないとまで言わせています。
朔也は三吉をイフィーに会わせます。それ以後、朔也が関わることなくイフィーと三吉は交流を続け、ある時、イフィーが朔也に三吉と付き合っているのかと尋ね、朔也が単に住まいをシェアしているだけだと答えますとイフィーは三吉を愛していると言います。朔也はそのことを三吉に伝え、そして後押しします。三吉は戸惑いながらも考えてみると答え、後日、イフィーの気持ちに応えると言います。
やはり同じパターンです。朔也、つまりはこの著者はこの行為が思いやりだと考えているということです。
そして、その時、朔也は仮想空間で母と対話しており、感極まって母の手を握ったところ、そこに生きた人間の体感を感じるわけですが、それは現実の三吉の手であり、そのことを認識した後でもその手を握り続け、三吉が離れていくまでじっと目を閉じているのです。
そして、三吉もまた朔也になにがしかの感情を抱いていることを暗に匂わせています。三吉がイフィーへの愛を一切語ることなくです。三吉はイフィーを愛していません。朔也にはそれがわかっています。
かなり長くなっていますがもう少しです(笑)。
善き人シンドローム…
現実社会の矛盾を体現する2人の人物も書いておく必要があります。岸谷とコンビニの店員です。
岸谷はこの世の中は間違っていると思い、社会へ異議申し立てをする人物です。これも今現実に起きている犯罪を模しています。ゲームを介した闇サイトで人を集め、ドローンを使って政治家を暗殺するというものです。ただ、岸谷には一歩手前でとどまらせています。これも「善き人シンドローム」のひとつで、朔也は岸谷に共感を持つところがあり、自分も岸谷になったかもしれないと言います。つまり、岸谷は朔也のある一面であるがゆえに「善き人」でなくてはいけないということです。
そして、もうひとり、コンビニの店員のミャンマー人ティリです。動画の件ではあたかも片言の日本語しか話せないような展開でしたが、実はティリは日本で生まれており、ほぼ完璧に日本語を話せます。少なくともコンビニで客に怒鳴られることは考えられません。なぜこんな設定にしているかはわかりませんが、とにかく、朔也はティリに妹とともに日本語を学び直すよう勧め、その学校の運営をしているNPOの資料まで用意しているのです。さらにそのNPOでインターンとして働かせてほしいと願い出たとも言っています。
著者の平野啓一郎氏はインテリという意味ではエリートです。社会を憂うインテリ作家は自らの社会的優位性に気づくことなく善き人フェミニストの夢をみているかのようです。