小砂川チト著『家庭用安心坑夫』

『ゾンビ回収婦』で今年2026年上半期の芥川龍之介賞を受賞した小砂川チトさんの前2作を読んでみました。この2作とも芥川賞の候補になっており、デビュー作の『家庭用安心坑夫』では群像新人文学賞を受賞、二作目の『猿の戴冠式』では三島由紀夫賞の候補となり、そして野間文芸新人賞を受賞という華々しいデビューの小砂川チトさんです。

2作ともこの記事の中で書こうと思い書き始めたのですが思いの外長くなりましたので『猿の戴冠式』は別記事になりました。私は図書館で単行本を借りて読みましたが、文庫版では2作同時収録になっていますね。

ネタバレあらすじ

とにかくそのユニークな発想に驚きます。『家庭用安心坑夫』では廃坑テーマパークの坑夫マネキンに 感応 する話、そして『猿の戴冠式』ではボノボと 交感 する話です。

人間ではないものに感応したり交感したりするという設定からどんな内容かはおおよそイメージできるのではないかと思います。三人称記述で書かれており、一部客観表現を交え、特徴的なのが主人公の心象表現であり、その対象がマネキンやボノボとなれば現実なのか妄想なのかは曖昧になり、その結果、様々な考察が生まれる小説かと思います。

どちらの主人公も作者の年齢に近い設定ですので作者の内面が結構出ているのかも知れませんね(適当な想像です…)。

さすがに文章はうまく、最初に『猿の戴冠式』を読んだんですが、冒頭の数ページで芥川賞も当然かなと思いました。ただ、その勢いあるうまさが延々と続きますのでかなり疲れます。

父は坑夫マネキン

藤田小波は夫と二人暮らしの30代の専業主婦です。労働が生きることと密接に結びついていることが理解しがたいと考える人物で、夫の収入と自身が買物代行のアルバイトで稼ぐ小銭でほそぼそと暮らしていくことに不満はないと言っています。

ただ、今はコロナ禍ですので夫が家でテレワークしていることが多く、そのときには妻が専業主婦などという現代ではあるまじき状態(と引け目を感じているよう…)を悟られないよう気を使う日々です。

そうしたストレスが小波を自身の過去へと引き戻したのかも知れません。父 尾去沢ツトム との再会です。日本橋のデパートで、ニュース映像の渋谷のスクランブル交差点で、そして自衛隊の大規模接種センターの会場でと、小波は様々な場所でツトムと遭遇します。ただ、ツトムは人間ではなくマインランド尾去沢(史跡尾去沢鉱山)の坑夫マネキンなんです。

現実世界のマネキンに感応して過去がよみがえるということでしょう。

史跡尾去沢鉱山

下の画像は江戸時代の坑道の展示です。ツトムの時代のマネキンを使った展示の画像もありますが個人サイトですので引用はしていません。興味のある方はググってみてください。

史跡尾去沢鉱山

尾去沢ツトムは、小波の父だった。
厳密には父といい切るわけにはいかない、あくまでも父とおぼしき人、だった。「あれがあなたのお父さんよ」と言い聞かされてきた相手、というのがじっさいのところであり、父なのかもしれないし、そうではないのかもしれず、小波はその点について未だに懐疑的なままだった。
(22p)

最後まで読みますとツトムは父ではないようです(笑)。

尾去沢鉱山のインパクト

小波は秋田出身(作者は岩手県盛岡市出身…)であり、小学校低学年までは母に連れられて唯一の遊興施設であるマインランド尾去沢へよく行っていたと言います。小波の母は絵を描く人で、その絵はおどろおどろしい色合いの絵ばかりで、次第にキャンパスが画板から卵の殻に変わっていき、それらが家中に飾られていたと言います。母親には何らかの神経症症状があったという設定でしょう。

母親は周囲の人には夫がいるふりをしていたらしく、またお金に困った様子もなかったということですので、小波は母子家庭で育っており、母親は小波も会ったことのない父親から定期的に金銭の援助を受けていたものと思われます。ただ、そんなことは小波が大人になれば自ずと分かることですし、それには触れずに、またそのことへの現実的な記述がほとんどないことを考えれば、この後の小波のマインランド尾去沢行きにしても小波の現実生活が抑え込んでいる深層心理の発露というよりも自身(作家も含め…)の過去への郷愁じゃないかと思います。

さらに言えば、ややネタ的な設定にもみえてきます。もちろん小説にしても映画にしてもあらゆる創作物にはネタが必要という意味での話です。

この後、小波のマインランド尾去沢行きと並行して炭鉱夫として生きたツトムの記述が数カ所挿入されるのですが、そのパートは小波パートとは異なり客観的な描写が多くなるのです。まず、ツトムは一個人の名ではなく炭鉱夫の象徴的な名前であるとの記述から入り、そのひとりのツトムが尾去沢鉱山の坑道に入り、そして地中深く下りていく描写がかなりリアルであり、そして、このパートの最後には発破による事故でツトムは亡くなっているような節があるのです。

ちなみに尾去沢鉱山は1978年に閉山しています。

秋田県鹿角市にある尾去沢鉱山は、奈良時代の和銅元年(708年)に発見されたと伝えられる、約1300年の歴史を持つ国内最大級の鉱山跡です。平安末期には平泉の黄金文化に貢献し、江戸時代には盛岡藩の重要な金・銅山として発展、明治以降は三菱の経営下で近代化を遂げましたが、昭和53年(1978年)に閉山しました。
(Gemini)

作者の幼い頃の記憶の中にマインランド尾去沢があるかどうかまではわかりませんが、当然取材には行っていると思われますのでこのパートのリアルさはその時のインパクトにあるんじゃないかと思います。

ネタ的に感じるのはこうしたところからです。

ツトムを求めて尾去沢へ

あるときから小波はツトムを見なくなります。尾去沢に帰ったのであれば自分が会いに行き、放っておいたことを謝らなくてはいけないと思い始め、夫に帰省することを話します。夫は猛烈に反対します。

これがまた奇妙で、夫は小波の父親(ツトムのことがどうかは不明…)のことを義父と呼び、かなり具体的に話をします。小波から聞かされた話なのか、実際に知っているのかははっきりしませんが、ひどい人だったじゃんとムキになり、本当の家族に持て余されて小波のもとに転がり込み(すでに母親は亡くなっている?…)挙句の果てに小波を介護要員のようにみていただけじゃないかと怒るのです。

小波は夫の拒絶反応を無視して、というよりもそれをバネにしたとも言える勢いで家を飛び出し東北新幹線に乗ります。

この後はこれが現実のものなのか妄想なのかはっきりしないままに、放置された実家に行き、窓から覗いた中に小波自身(年齢不詳…)を見て失神し、一晩その状態で眠りこけ、翌朝レンタカーを借りてマインランド尾去沢に向かいます。

ここでは小波の見た目になりますが、ツトムの尾去沢鉱山描写と同じようにマインランド尾去沢の客観記述がかなりリアルに続きます。

ここらあたりから小波自身も自分が何をしようとしているのかよくわからない状態の記述が続き、結局、マネキンの1体であるツトムを実家に連れ出し、その途中で介護施設の送迎ワゴン車とすれ違い、いつの間にやらそのひとりと思わる老人とツトムと小波で鍋を囲むことになり、その時突然小波はツトムと決別する決心をします。よくわかりませんがそういうことだと思います。

翌朝、小波は実家の後片付けをしながら、この家でのあの男(ツトムではなく、夫が義父と呼んだ人物…)のことを思い、おむつをしたツトムを放置して新幹線に飛び乗ります。

よくわからん(笑)。

そして小波は東京の団地に戻り、自宅の鍵を開けようとしますが、その時、夫の顔を思い出せない自分を感じます。

ああ、あのとき夫が引き留めたのにはちゃんと理由があったのだ、夫はただしくて、だから自分はもう二度と、この団地でのあの夢のような生活のなかに帰ることはできないのだと、そのことをいっぺんに、直感的に理解した。
(125p 終わり)

感想、考察:都会生活の違和感と地元への郷愁

この小説では、ツトムという存在が何であるかを無理やり整理することにあまり意味はありませんが、最後まで読みますと、浮き上がってくるテーマは東京という都会生活と対比的に置かれた故郷への郷愁じゃないかという気がしてきます。

設定としては、小波は物心つくまでは母子家庭として育ち、成人後に母を亡くし、その後、父親が小波のもとで暮らすようになり、その介護を終えて東京に出たものと思われます。夫との出会いはおそらく東京でしょうし、自分の過去も隠さず話しているのでしょう。嘘をつくような理由もありません。

母が坑夫マネキンを指さしてあれがあなたのお父さんよと言ったというのも、小波が妻ある男との間の子であるとすればあり得ることです。

そして今、小波によみがえるものは、なぜかあれほど憎んでいたはずの母と父であり、その思いからの幼い頃聞かされ続けた「あれがあなたのお父さんよ」の母の言葉であり、そして坑夫マネキンのツトムだということです。

ちょっと整理しすぎたかも知れません(笑)。

小説家のデビュー作には結構作家本人の過去の体験が現れるものです。もちろん小波が作家本人という意味ではなく、地元東北に思いを致すという意味でのことです。

この小説はコロナ禍の時期に書かれていると思われますのでその影響もあるのかも知れません。